プロメテウス達よ (付記5)

第五章「マンハッタン計画(下)」で活躍するプロメテウス達/第五章の参考文献   作品の目次  第五章_トップ

 

オッペンハイマーコンプトンフェルミローレンスはドイツの降伏の二日後に召集されて完成間近の原子爆弾の使用法に関して科学者としての意見を聴取された。戦争終結のために積極的に原子爆弾を用いるべきだとするコンプトンと限定しようを主張するローレンスとが激論を戦わせた。


シカゴ大学原子力開発の基礎研究に取り組んでいたレオ・シラードはドイツの降伏によって原子爆弾は必要なくなったと考え、

ジェームズ・フランクと共に核兵器のあり方を考えて政治家に意見を提出しようとする。英語での作文に堪能だった生物学者のラヴィノヴィッチらがこの内容をまとめたいわゆるフランク・レポートにはシラードフランクだけではなくプルトニウムの生成に成功したグレン・シーボーグなど若手の良識ある科学者が署名したがコンプトンは目を通しただけで署名はしなかった。


週末に当たった六月十六日、オッペンハイマーコンプトンフェルミローレンスの四人から成る科学者小委員会はロス・アラモスで原爆の使用法だけを議題とする二回目の会合を開いた。この席上、今まで寡黙だったフェルミ原子爆弾の使用に激しく反対し、小委員会は意見の一致を見ることなく原子爆弾の使用についての決定を上層の政治家に委ねた。


オットー・フリッシュは同僚のパイレーズらと共にイギリスで原子力開発に必要な理論の精緻化を図り、特に核分裂の連鎖反応惹起に必要なウラニウム237の量を大幅に下方修正した。


ルイス・アルヴァレスカリフォルニア州立大学バークレー校でアーネスト・ローレンスに指示した科学者でマンハッタン計画に出向したことから広島と小倉(当日、天候を理由に長崎に変更)に原子爆弾を搭載した飛行機に従う飛行に科学者の代表として搭乗した。長崎への原爆投下の際、アルヴァレスは共にローレンスに師事した日本人科学者リョーキチ・サガネに宛てた無条件降伏を日本政府に対して手紙をパラシュートにつけて投下し、日本の降伏後にこの手紙はサガネの元に届けられた。


ニールス・ボーアの教え子で東京大学教授の仁科芳雄はGHQが上陸する以前に広島と長崎に投下された新型爆弾が原子爆弾であることを特定しただけではなく、その威力に関しても詳細なデータをまとめあげた。なお、仁科が研究に用いていたサイクロトロンはGHQに所属する専門外の軍人によって核兵器製造とは無関係であるのにもかかわらず破壊された。

 

 

参考文献

lxiv[13] 実際には起草者は不明で筆頭証明者のジェームズ・フランクが全責任を負っているが、内容や文体から草稿を用意したのはシラードだと推測される。
lxv[14] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns”の巻末に参考として掲載された全文より。
lxvi[15] フランク・レポートは非常に長いので要約が必要であり、Alter Smith Schoenberger “Decision of Destiny”に引用された部分だけを引用
した。
lxvii[16] A.H.Compton “Atomic Quest” 
lxviii[17] A.H.Compton “Atomic Quest” 
lxix[18] 残されている本人の写真を見て筆者が感じた内容である。
lxx[19] Cregg Herken “Brotherhood of the Bomb” 
lxxi[20] A.H.Compton “Atomic Quest”(1956 年刊行)にはこの記述はなく、ローレンスが最も頑強に日本への原子爆弾使用に反対したことになっている。Emilio Segrè “Enrico Fermi”によれば、フェルミが頑強に反対したことはフェルミの死後まで秘匿されていたという。
lxxii[21] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
lxxiii[22] 約一ヶ月後、エドワード・テラーがシラードの嘆願書をオークリッジで回覧しようとした時にオッペンハイマーがテラーに対して語った言葉。七月半ばにはオッペンハイマーのこの姿勢は固まっていたが、六月半ばにおけるオッペンハイマーの考え方は下に引用したオッペンハイマーがまとめて軍事省長官宛てに出された委員会の報告書の但し書きと筆者の想像に基づいている。
lxxiv[23] 直接の引用は Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb”より。
lxxv[24] “”ただし直接の引用は John Cornwell “Hitler’s Scientist”から。
lxxvi[25] マックス・フォン・ラウエ(1914 年、物理学賞)とヴェルナー・ハイゼンベルク(1932 年、物理学賞)の他、スエーデン王立アカデミーは 1944 年にオットー・ハーンの化学賞を受賞を決定していたので実際はノーベル賞受賞者は三人だったが、ハーンの受賞はこの年の暮れまで公表されなかった。
lxxvii[26] Peter Goodchild “Oppenheimer,Shatter of Worlds” 
lxxviii[27] Robert Jungk "Brighter than a Thousand Suns"
lxxix[28] アラモゴルドでの爆破実験に関しては Rachel Fermi (ed.) “Picturing The “Bomb”、 Peter Goodchild “Oppenheimer,Shatter of Worlds”、 Robert Jungk "Brighter than a Thousand Suns"を参考にした。
lxxx[29] Cregg Herken “Brotherhood of the Bomb” ただし表現は若干変えてある。
lxxxi[30] A.H.Compton “Atomic Quest”。チャーチルの「第二次世界大戦戦史」にトルーマン大統領の言葉を聞いて安堵したチャーチルの率直な感
慨が書かれている。
lxxxii[31] Alter Smith Schoenberger “Decision of Destiny”、 Bernard J.O’Keefe “Nuclear Hostages”、 Manhattan Engineer
District “A-bomb of Hiroshima and Nagasaki”など。
lxxxiii[32] A.H.Compton “Atomic Quest” 
lxxxiv[33] Manhattan Engineer District “A-bomb of Hiroshima and Nagasaki”、 John Hersey “Hiroshima”など

プロメテウス達よ (付記4)

第四章「マンハッタン計画(上)」で活躍するプロメテウス達/第四章の参考文献 作品の目次

第四章 トップ

 

名門士官学校であるウエストポイントの卒業生で技術系の修士号も持つレスリー・グローブス准将を総司令官とするマンハッタン計画が開始され、ロハート・オッペンハイマーが科学者と技術者の頂点に任命された。

 

日本による真珠湾攻撃の前後、アーサー・コンプトン原子力開発の骨子をまとめ、研究の本拠地をサンフランシスコのカリフォルニア州立大学バークレー校にすべきだとするアーネスト・ローレンスコロンビア大学プリンストン大学にすべきだとするフェルミシラードウィグナーらの意見を高飛車に抑えて原子力開発の基礎研究の拠点をシカゴ大学に定めた。


日本による真珠湾攻撃アメリカの第二次世界大戦への参戦によってエンリコ・フェルミは敵性外国人とみなされ、他の米国籍が未取得のイタリア出身者と同じく、出張などの移動を制限されるようになった。アメリカ政府は護衛の名目でフェルミの動向を監視する軍人を派遣したが、フェルミウラニウムへの中性子線照射の実験を続けることができた。コンプトンの決定によってフェルミレオ・シラードと共にシカゴ大学に移籍して研究を継続し、アメリカの参戦の翌年の一九四二年十二月に核分裂の連鎖反応の惹起に成功した。多くの科学者らが静かにこの快挙を祝福した。フェルミは商業発電に耐えるだけの出力が得られるまではシカゴに留まるつもりだったが一九四四年八月に家族を挙げてオッペンハイマーハンス・ベーテエドワード・テラーらがすでに働いていたロス・アラモスに移った。一般イタリア系移民がファシスト政権のイタリアに講義してデモ行進などの思表示を行ったため、フェルミは敵性外国人とは見なされなくなるが、アメリカ市民権獲得前に一般移民には課されない試練を課されることがあり、また護衛も終戦までフェルミに付き添った。

 

エンリコ・フェルミウラニウム235を分離することなしに商業発電のための核分裂の連鎖反応継続と出力の上昇を狙っていたが、名門士官学校であるウエストポイントの卒業生で技術系の修士号も持つレスリー・グローブス准将を総司令官とするマンハッタン計画が開始され、ロハート・オッペンハイマーが科学者と技術者の頂点に任命された。


日本による真珠湾攻撃の前後、アーサー・コンプトン原子力開発の骨子をまとめ、研究の本拠地をサンフランシスコのカリフォルニア州立大学バークレー校にすべきだとするアーネスト・ローレンスコロンビア大学プリンストン大学にすべきだとするフェルミシラードウィグナーらの意見を高飛車に抑えて原子力開発の基礎研究の拠点をシカゴ大学に定めた。


日本による真珠湾攻撃アメリカの第二次世界大戦への参戦によってエンリコ・フェルミは敵性外国人とみなされ、他の米国籍が未取得のイタリア出身者と同じく、出張などの移動を制限されるようになった。アメリカ政府は護衛の名目でフェルミの動向を監視する軍人を派遣したが、フェルミウラニウムへの中性子線照射の実験を続けることができた。コンプトンの決定によってフェルミはシラードと共にシカゴ大学に移籍して研究を継続し、アメリカの参戦の翌年の一九四二年十二月に核分裂の連鎖反応の惹起に成功した。多くの科学者らが静かにこの快挙を祝福した。フェルミは商業発電に耐えるだけの出力が得られるまではシカゴに留まるつもりだったが一九四四年八月に家族を挙げてオッペンハイマーハンス・ベーテエドワード・テラーらがすでに働いていたロス・アラモスに移った。一般イタリア系移民がファシスト政権のイタリアに講義してデモ行進などの意思表示を行ったため、フェルミは敵性外国人とは見なされなくなるが、アメリカ市民権獲得前に一般移民には課されない試練を課されることもあり、また護衛も終戦までフェルミに付き添った


エンリコ・フェルミウラニウム235を分離することなしに商業発電のための核分裂の連鎖反応継続と出力の上昇を狙っていたが、サイクロトロンを考案したアーネスト・ローレンスゲッチンゲン大学を辞職してアメリカに亡命したジェームズ・フランクウラニウム235を分離する方法を模索した。ジェームズ・フランクはガス分離法を考案してマンハッタン計画に採用され、重水の発見によってノーベル化学賞を受賞したハロルド・ユーリーが実際の設備考案などに当たった。サイクロトロンによる電磁分離法を試みるアーネスト・ローレンスとガス分離法を推進するハロルド・ユーリーはその後、情報を共有し、また互いに競い合うためにテネシー州オークリッジに転居させられる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3?wprov=sfti1
プルトニウムの生成に成功したグレン・シーボーグエドウィン・マクミランらは西海岸のカリフォルニア州立大学バークレー校でより効率的なプルトニウム生成法を探り、その過程でいくつかの人造元素を生成した。

 

 ニールス・ボーアは九四三年の夏にデンマークからイギリスに危険を冒して脱出し、その後チャドィック接触してドイツの原子力開発や科学者らの動向などについて聴取した。その後、ボーアチャドィックと共に渡米して全米各地に解説された原子力開発施設などを視察したが、これらの施設に勤務していた科学者ら、特に最前線だったロス・アラモスに招聘されていた科学者らはニールス・ボーアの姿を垣間見るだけで働く意欲を刺激されたという。


伯母のリーゼ・マイトナーと共にオットー・ハーンの実験結果を解析して一九三八年の暮に重要な結論を導き出したオットー・フリッシュはイギリスに定住し、同僚のパイアールズと共に核分裂の連鎖反応を可能にするウラニウムの臨界量を大幅に下方修正した。  


アインシュタインはその平和主義の思想のためか、あるいは特異な容貌のせいで招聘されず。リーゼ・マイトナーマンハッタン計画に招聘されながら断った唯一の科学者となった。イギリスに帰化していたマックス・ボーン(ドイツ語 = ボルン)はあらかじめ武器の製作に決して携わらないことを明言していたためマンハッタン計画には招聘されず、サミュエル・ゴードスミットオランダ語 = ハウシュミット)も一九四四年まで招聘されなかった。ゴードスミットは一九四四年六月にドイツ原子力開発計画の施設や水準を探るためのいわゆる「アルソス・ミッション」に招聘され、まずナチスから解放されたフランスでフレデリック・ジョリオらを尋問して彼らがナチス・ドイツに協力しなかったことを確認する。


マックス・フォン・ラウエナチス政府に抗議して一九四三年にベルリン大学を自主退職し、ゲッチンゲンの研究所所長に就任していたオットー・ハーンは「わたしの発見が武器の製造に応用されたら自殺する。」と消極的にではあるがナチス・ドイツへの協力を拒んだ。

 

ドイツ以外の枢軸国では東京大学仁科芳雄サイクロトロンを用いた各種の実験を行い、京都大学では湯川(旧姓:小川)秀樹が理論の研究に勤しんでいたが、占領地域を含む日本にはウラニウム鉱山がないため、日本の物理学者らの動向は問題視されなかったものの仁科が渾身の努力によって建設を完遂したに違いないサイクロトロンは戦後、マンハッタン計画サイクロトロンの多様な用途について知る由もない下級米兵によって完全に破壊された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3?wprov=sfti1
ハイゼンベルクは連合国がフランスを解放し、ライン川以東に進行するという知らせを聞いて実験室を放棄して連合国の検問をかい潜って自転車で三日三晩かけて妻子が住む南ドイツに逃避した。

 

参考文献

lii[1] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
liii[2] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” 
liv[3] Emilio Segrè “Enrico Fermi” 
lv[4] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
lvi[5] 戦略工作局 (Office of Strategic Services)、後の米国中央情報局(CIA)の前身。
lvii[6] Samuel A. Goudsmit “Alsos

lviii[7] アメリカ上院に提出されたゴードスミットの覚書きより。ただし、直接の引用元は Alter Smith Schoenberger “Decision of Destiny”。
lix[8] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg” 
lx[9] 一九四五年十二月の出来事である。
lxi[10] Samuel A. Goudsmit “Alsos” 
lxii[11] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg” 
lxiii[12] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos

プロメテウス達よ (付記3)

第三章「プロメテウスの目覚め」で活躍するプロメテウス達/第三章の参考文献 作品の目次  第三章_トップ

 

ニールス・ボーア原子核の中に封じられているエネルギーを解放することができるとオットー・フリッシュ経由でリーゼ・マイトナーから告げられ、それを確信した最初のノーベル賞級物理学者である。彼はこの事実を重大に受け止め、学問の自由を求めてイタリアからアメリカに渡ったばかりのエンリコ・フェルミと衝突する。ボーアの祖国デンマークナチス・ドイツの占領下に入った後もユダヤ人を母とするボーアはドイツのデンマークでのユダヤ人政策がいまだそれほど厳しくなく、また研究所の行く末を見定めたいという理由でコペンハーゲンに残った。

 

アメリカ、ニューヨークのコロンビア大学で正教授の地位に就いたエンリコ・フェルミオットー・ハーンリーゼ・マイトナーの研究成果を新しいエネルギーを得るための大きな躍のきっかけと捕らえラジオ番組に出演して内容を一般人に公開するがニールス・ボーアはこれを聞いて激怒した。


イシドール・ラバイエドワード・テラーレオ・シラードと同じくオットー・ハーンリーゼ・マイトナーの研究成果を公表すべきではないと考えたがレオ・シラードはさらにニールス・ボーアアメリカに滞在している間に原子力開発の機密保持についての合意を確立しようとした。ただ、核分裂の連鎖反応にはウラニウム全体の1%を占めるウラニウム235が相当量必要だという結論からボーアフェルミと同じく特に差し迫った秘密保持は必要ではないという結論に達した。シラードと同じく事実の拡散を憂慮した科学者の仲にはハンガリー出身のユージン・ウィグナーデンマーク出身のヴィクトル・ワイスコプフがいた。


アルバート・アインシュタインプリンストン大学で研究を続けていたがレオ・シラードらのユダヤ人物理学者らの要請でアメリカ大統領ルーズベルトに宛てた原子力開発の補助を要請する書簡に署名する。


ユージン・ウィグナーの妹婿で1933年にシュレジンガーと共に量子力学の発展に対する功績によってノーベル賞を授与され、また寡黙な変人で知られるポール・ディラックウィグナーシラードらによるによる秘密保持の要請を快く承諾した。 


イレーヌ・キューリーフレデリックジョリオオットー・ハーンリーゼ・マイトナーの研究成果を受け、重水を緩衝物質に、シラードらの忠告を無視してその結果をネーチャー誌に発表した。しかし、ナチス・ドイツのフランス侵攻に対応して重水を南フランスのマルセイユに移送、その後ナチス・ドイツのパリ入城の前後に部下に研究データの焼却を命じるなどの辛酸をなめる。

 

1939年の夏、第二次世界大戦勃発の直前、ヴェルナー・ハイゼンベルグは師のニールス・ボーアと入れ替わりに渡米するが、その目的はナチス・ドイツから逃れたユダヤ系科学者らが政権が交代した後にドイツに戻る意思があるかどうかを問うことだった。オットー・ハーンリーゼ・マイトナーの成果に関わるアメリカ人科学者たちとの間にはアメリカとドイツの将来の予測に関して溝が生じた。コロンビア大学ハイゼンベルクを教授として採用すると申し出るがハイゼンベルク聞く耳を持たず、オランダ人所長のペーター・デバイが亡命した後の国立カイザー・ウィルヘルム研究所の所長に就任した。

 

ロハート・オッペンハイマーがサンフランシスコで開いたハイゼンベルグとの懇談会でも核分裂の話題は意識的に避けられた。シカゴ大学アーサー・コンプトンは民主主義と自由を巡ってハイゼンベルクと真っ向から対立した。アーサー・コンプトンはこの後、原子力開発に関わる研究成果を整理する役割に任じられる。


アーネスト・ローレンスサイクロトロン開発がスエーデン王立アカデミーに認められ、一九三九年にノーベル物理学賞の授与が決定した。しかし第二次世界大戦勃発のためローレンスは授賞式の出席を見合わせた。


若い化学者のグレン・シーボーグアーネスト・ローレンスの指導の下でサイクロトロンの操作に習熟した。シーボーグの目標はサイクロトロンによる粒子照射によって生じた元素を同位体を含めて正確に特定することだったが、この過程でシーボーグは同僚のマクミランワール、ケネディーらと共に非常に安定した(半減期が長い)元素のプルトニウムを人口的に生成した。エミリオ・セグレがこの新元素が核分裂を引き起こすことを確認した。

 

イギリス人物理学者のオリファント原子力開発の加速を要請するためにアメリカを訪れ、第一線で活躍しているがいまだ敵国籍のエンリコ・フェルミに知らせることなく、西海岸で教鞭を取るアーネスト・ローレンスと詳細を打ち合わせた。アーネスト・ローレンスはさらに、オリファントが要請した内容をシカゴ大学の創立記念に東海岸から出席したハーバード大学学長で物理学者のコナントシカゴ大学宇宙線の研究をしていたアーサー・コンプトンに話し、助言を求めた。

 

オランダ人のペーター・デバイは化学者でベルリンのドイツ国立カイザー・ウィルヘルム研究所の所長を務めたがナチス・ドイツドイツ国籍の取得を強要されたことを理由に一九三九年にアメリカに亡命し、ドイツ国立カイザー・ウィルヘルム研究所の内部事情などをこと細かにシラードらに報告した。


経済学者でルーズベルト大統領に政策策定で協力する機会があったアレキサンダー・サックスアインシュタインが署名したルーズベルト大統領宛の手紙を預かったがヨーロッパでの戦争勃発を受けて即時に大統領に手紙を手渡すことを控え、大統領に効果的に手紙を渡す時期と方法を窺った。彼が大統領に手紙を渡したのは戦争勃発後訳一ヶ月立ってからである。一九四十年にナチス・ドイツが植民地にウラニウム鉱を擁するベルギーを占領するとサックスは大統領にさらに原子力委開発の加速を要請し、その結果カーネギー研究所所長のヴァネヴァー・ブッシュをトップとする国防研究委員会が設立された。


ベルギーの実業家であるサンギエウラニウムが新たなエネルギー源となるかもしれないという噂に接し、物理の知識が全くないままにその理由を知ろうとするが、それすらもおぼつかないまま、ベルギー領コンゴで採掘されるウランを含むピッチブレンドナチス・ドイツに摂取される前に出来る限り多くを連合国側に引き渡そうという一大投機を決意した。彼は私材を投じてピッチブレンドアメリカ、ニ
ューヨーク市のスタッテン島にピストン輸送する。


一九四一年の十月にハイゼンベルクはすでにナチス・ドイツの占領下にあったデンマークの首都を訪れ、恩師のニールス・ボーアの私邸も訪れて面会した。この経緯はトニー賞受賞作品の戯曲および映画/舞台劇の「コペンハーゲン」で二人の科学者の心理劇として見事に描かれているが、ハイゼンベルクは講演の依頼に応じてコペンハーゲンに赴いたので、「コペンハーゲン」で強調されているハイゼンベルクコペンハーゲン訪問の理由ではなく、ハイゼンベルクとボーアとの間の会話の内容とボーアが取ったその後の行動に及ぼした会話の影響が大きな謎である。

 

(ハイゼンベルク)

 

(ボーア)

【映画ルーム(特番) コペンハーゲン原子力開発について知っておくべきこと 10点】

https://kawamari7.hatenablog.com/entry/2019/08/16/112350

 

 

参考文献

xxvii[1] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
xxviii[2] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xxix[3] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xxx[4] Thomas Powers “Heisenberg’s War

xxxi[5] Thomas Powers “Heisenberg’s War”と A.H.Compton “Atomic Quest”による。
xxxii[6] Thomas Powers “Heisenberg’s War”ただし、表現は少々変えてある。
xxxiii[7] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xxxiv[8] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns” 
xxxv[9] 戦略工作局 (Office of Strategic Services)、後の米国中央情報局(CIA)の前身。
xxxvi[10] Bernard J.O’Keefe “Nuclear Hostages” 
xxxvii[11] A.H.Compton “Atomic Quest” 
xxxviii[12] A.H.Compton “Atomic Quest” 
xxxix[13] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xl[14] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
xli[15] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns”に引用されているハイゼンベルクの回想より。Robert Jungk は同書の執筆に当たってハイゼンベルクに会見の模様を尋ね、ハイゼンベルクが「会話の隅々に至るまで記憶しているわけではないが・・・。」という但し書きつきでこれに応じたもの

 

プロメテウス達よ (付記2)

第二章「新時代の錬金術師たち」で活躍するプロメテウス達/第二章の参考文献 作品の目次  第二章_トップ

 

ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラードナチスに席巻されたドイツを見限り、ベルリンからオーストリアに、さらにはラザフォードを頼ってイギリスに移住する。 


ジェームズ・フランクナチス・ドイツを公然と糾弾し、ナチス政府に抗議するために大学教授の職を辞す。ゲッチンゲン大学教授で平和主義者のマックス・ボルン(英語 = ボーン)もイギリスを目指した。


マックス・フォン・ラウエヴェルナー・ハイゼンベルクらの純粋ドイツ人(アーリア人)科学者はユダヤ人科学者が教職を追われた後の大学で授業や研究課題の補填に負われた。また、量子力学を創設したマックス・プランクヒトラーに面談してユダヤ人科学者を大学に留めるようを要請したが聞き入れられなかった。


一方でゲッチンゲン時代からハイゼンベルクの親友だったヴォルブガング・パウリドイツ国内で教職を負われたユダヤ人科学者を積極的に支援しようと彼らの経歴を調べ上げてイギリスやアメリカでの就職を助けるボランティア活動に携わった。


アインシュタインとその妻(後妻)は一九三十年代初めから講演やシオニズム運動の活動で定まった住所をもたなかったがナチス政権成立後、官憲がアインシュタインの別荘を探索し、凶器(実際には台所用具)を押収するなどしたため、ベルギー王室の好意を頼ってドイツを去り、一九三三年にアメリカに渡る。


リーゼ・マイトナーは祖国オーストリアナチス・ドイツに併合された後もベルリンで同僚らの協力を得て研究を続けるが、ついにオットー・ハーンの忠告に従って危険を冒してドイツを去ってオランダで一年間限定の教職に就いたがその後、スエーデンのストックホルムに定住した。オットー・ハーン核分裂の根拠となる決定的な分析結果を得たのはマイトナーがストックホルムに移った直後のクリスマス休暇の直前だった。


デンマークの首都コペンハーゲンに居住していたニールス・ボーアはこの時期比較的安穏な生活を送り、自らが設立した国際研究所の拡充を図り、寄付を募るための旅行などにもしばしば出かけていたようである。「核分裂(fission)」の名称はオットー・ハーンによる実験解析結果およびリーゼ・マイトナーによる分析結果をマイトナーの甥であるオットー・フリッシュから報告された時にコペンハーゲのボーアの研究所を訪れていたアメリカ人生物学者のアーノルドによる。


イレーヌ・ジョリオ=キューリーフレデリック・ジョリオ=キューリーベリリウムアルファ線を照射すると全く別の放射線を発することをつきとめた。ジェームズ・チャドウィックはこの現象を解析して原子核の構造の中に比較的質量の大きな中性子が存在することを突き止めた。中性子の発見は一九三二年、これによるノーベル物理学賞の受賞は一九三五年である。


エンリコ・フェルミは量子の運動を把握するために編み出した統計理論を編み出したが発表の数週間後にイギリスのポール・ディラックがそれとは知らずに全く同じ統計理論を別の学術誌に発表した。フェルミはまた革新的な論文によって二十八歳の若さでローマ大学の正教授の地位に就く。チャドウィックによる中性子の発見の直後から原子量の高い元素に中性子を照射することによる有意な結果(元素の変換)を予測し、イタリアでは「閣下(エクセレンツァ)」と呼ばれる身分だったにもかかわらず、連日作業衣に身を包んで実験にいそしんだ。一九三八年フェルミサミュエル・ゴードスミットオランダ語 = ハウシュミット)のの誘いで夏休み中にアメリカの大学で夏期講座の講師を務めている間にイタリア政府が対ユダヤ人政策を強化し、同時期にアメリカに滞在していたユダヤ人の教え子でパレルモ大学教授のエミリオ・セグレは大学を追放され、帰国の術を失う。ユダヤ人女性を妻とするフェルミ
アメリカへの移住を思案するようになりいくつかのアメリカの大学を打診し始めるが、奇しくもニューヨークのコロンビア大学から教授内定の通知を受け取って一家を挙げての移住の手続きを開始した直後にノーベル物理学賞を受賞が決定し、フェルミはこの機会も利用して限られた同僚だけに真意を告げてイタリアを去った。


エンリコ・フェルミの教え子でユダヤ人のエミリオ・セグレアメリカに滞在している間に故国イタリアで厳しいユダヤ人対策が施行され、パレルモ大学の教員の地位を失ったセグレは着の身気のままでアメリカに滞在することを余儀なくされた。アーネスト・ローレンスは彼に大学助手の職を世話するがこのポストは非常な低賃金だったという。


イタリア人のエンリコ・フェルミとイギリス人のポール・ディラックがほぼ同時に原始物理学に欠かせない同じ統計手法を考案したことによって両者へのノーベル物理学賞の共同授与が取りざたされたが、これが実現しなかったのはポール・ディラックエルヴィン・シュレジンガーが別の業績(原子理論の新しい解釈)によって一九三年にノーベル物理学賞を共同受賞したからである。


アメリカ、ニューヨークのコロンビア大学で化学を教えていたハロルド・ユーリーは重水を発見し、この功績によって一九三四年にノーベル化学賞を受賞した。重水は原子力開発に係る実験物理学に大きな進歩をもたらした。


アーサー・コンプトンはこの頃は宇宙線を研究テーマにしていてこの時点では未だ原子力開発には関わっていなかった。


アーネスト・ローレンスは一九二九年頃からイギリスのラザフォードアルファ線を照射して比較的軽量の元素を他元素に転換することに成功したことを知っていたが、カリフォルニア州立大学バークレー校の教授になった頃からコーヒー缶など円筒の中心に磁石を配置することによって粒子を加速し、重量のある原子により効果的に照射するサイクロトロンに自信を得ていた。この功績によってローレンスは一九三三年に開催された物理学者の国際会合(ソルヴェイ会議 写真)にアメリカ人としてただ一人招聘された。ローレンスはさらに医学を学んだ弟とともにサイクロトロンの原子物理学以外での応用可能性を探った。

 

ヨーロッパ各地で研究を積んだロバート・オッペンハイマーカリフォルニア州立大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の教授を兼任することになりアーネスト・ローレンスと専門を超えて文学・美術・音楽なども語る友人となる。ヨーロッパでオッペンハイマーは後のマンハッタン計画で部下であり友人ともなるポール・ディラックイシドール・ラバイと知り合うが、この二人はオッペンハイマーの芸術志向を理解することはなかった。


イギリスにおける原子力開発の始祖と看做されるラザフォードは一九三七年十月に些細な事故が原因で死去した。


グレン・シーボーグエドウィン・マクミランは人造元素を生成する真の錬金術師を目指してアーネスト・ローレンスの元で修行を積んでいた。


リーゼ・マイトナーの甥でニールス・ボーアが所長を務める研究所の物理学の研究員でもあったオットー・フリッシュは伯母がオットー・ハーンから実験結果を受け取った際に休暇で伯母の元に滞在していた。二人はクリスマス休暇を返上してハーンの実験結果を解析し、アインシュタインが予言したとおりに核分裂から多大なエネルギーが得られるという結論に達した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2?wprov=sfti1

 

 

参考文献

xvii[1] Wikipedia など。
xviii[2] Pierre de Latil “Enrico Fermi” 
xix[3] Commencement Address(1938) 
xx[4] ユダヤ教聖典
xxi[5] Kay Bird, Martin Sherwin “American Prometheus, The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer” 
xxii[6] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
xxiii[7] フェルミの妻の“Atoms in the Family” によれば、フェルミノーベル賞受賞はイタリアの新聞でわずか二行の記事として伝えられ、フェルミが賞を受け取る際にスエーデン国王に対してファシスト風敬礼をしなかったことが別途、非難されたという。ノーベル賞委員会はこの年に先立ち、ドイツで獄中にあった政治犯ノーベル平和賞を授与しており、そのせいでドイツとイタリアの両国政府はノーベル賞自体に冷ややかな態度をとっていたという。しかし、これはあくまでもイタリア政府に反感をもっていたフェルミの妻が伝え聞いたことである。
xxiv[8] フェルミノーベル賞受賞前後の記述は全て Laura Fermi “Atoms in the Family” 。
xxv[9] A.H.Compton “Atomic Quest” 
xxvi[10] Life Sicence Library “Matter” (邦訳「物質」)

プロメテウス達よ (付記1)

第一章 「プロメテウスの揺籃の地」で活躍するプロメテウス達/第一章の参考文献  作品の目次

第一章 トップ 

 

少年だったヴェルナー・ハイゼンベルク第一次世界大戦でのドイツの敗北に感化され、学問を究めるきことによってドイツの文化復興に寄与しようと心に決めるが実験に重きを置く当時の物理学の潮流の中で必ずしも成績優秀ではなかった。しかし、実験を置いて理論に没頭する彼をゲッチンゲン大学の教授やデンマーク人物理学者のニールス・ボーアは暖かく見守る。ド・ブロイの理論に基づいてアインシュタインらが投げかけた疑問から思考を重ね、ハイゼンベルクは二十四歳の時に「極少粒子の一と速度を同時に知ることはできない」といういわゆる不確定性理論に逢着し、一九三二年に三十二歳でノーベル物理学賞を単独受賞する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%A4?wprov=sfti1


アルバート・インシュタイン第一次大戦後に相対性理論に対してではなく、彼の業績の中では比較的重要性の低い光電効果によってノーベル賞を授与されたが、その目的は彼をスエーデンの首都に呼んで相対性理論の講演をさせるという後にも先にも例がないものだった。この後、アインシュタインニールス・ボーア傘下に集まった若い物理学者、特にハイゼンベルクに対して理論上の問いを呵責なく投げかける。

 

アーサー・エディントンはイギリス人の物理学者で平和主義者。第一次世界大戦後、大西洋上で日食があった際にアインシュタイン相対性理論を実測で証明した。ただし観測誤差が理論の証明となる重力による歪み(ニュートン力学による予測値からの乖離)の計測値より大きかった。


量子力学を創設したマックス・プランクの直接の弟子であるマックス・フォン・ラウエベルリン大学の教授でアインシュタインの若い頃からの親友であり、レオ・シラード(次章以降のプロメテウス)を指導した。彼の業績はX線解析による金属構造の解析で原子力開発とは直接的には関係ないかもしれないが、その人柄や行動がプロメテウス達に及ぼした影響は計り知れない。


ニールス・ボーアはこの章でプランクの理論などを取り入れた原子核モデルを構築し、その既往席によってノーベル物理学賞を受賞する。また、新旧大陸を往復して自身がコペンハーゲンに設立した研究所の拡充を図った。

 

この少し前にドイツに留学した日本人物理学者の仁科芳雄(第三章以降のプロメテウス?)はニールス・ボーアの人柄とボーアがデンマークの首都コペンハーゲンに設立した研究所の構想に共感し、デンマークで少なからぬ日を過ごしたがこの期間中に発表したのがクライン=仁科の理論である。仁科は一九四五年八月六日に広島に投下された爆弾が原子爆弾であると認定した。


後日本への原子爆弾投下の直前に核拡散防止を提唱し無警告で日本に対して原子爆弾を使用することに反対する科学者の良心の意見書、いわゆるフランク・レポートを作成することになるジェームズ・フランクはこの頃はドイツで実験物理の第一人者であり、一九二五年に周波数の単位に名前を残すヘルツと共にノーベル物理学賞を受賞する。


イギリスに移住後に多くの教え子に遅れてノーベル賞を受賞することになるマックス・ボルン(英語 = ボーン)はこの頃ゲッチンゲン大学ハイゼンベルグパウリらの教え子に鋭い疑問を投げかけることによって彼らの理論の精緻化を促し、また自らも数学に秀でたパスカル・ジョルダンともに弟子たちの理論の精緻化に取り組んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF?wprov=sfti1

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AA?wprov=sfti1

 

後にマンハッタン計画で科学者と技術者の頂点に立つことになるジュリアス・ロバート・オッペンハイマーアメリカの最高学府のハーバード大学で化学を専攻して三年で優等賞とともに学士号を取得した後、物理学に転向するが留学先のイギリス、カベンディッシュ研究所で冷遇され、マックス・ボルンの知己を得てゲッチンゲン大学に移籍する。この頃は精神的に不安定で様々な言語を学び、その言語で書かれた古典に触れることによって精神の安定を試みた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%B3?wprov=sfti1

 

イタリア出身の物理学者エンリコ・フェルミは学生時代に約七ヶ月間ゲッチンゲン大学で学んだが、ガリレオやボルタなどの、ルネッサンス期以降の実証科学の伝統に染まった彼は理論一辺倒のゲッチンゲンでの学究姿勢をあまり好まず、ゲッチンゲン大学も理論と実証の両刀使いの稀代の天才に成長していくフェルミの将来を見抜くことはなかった。


学生時代のサミュエル・ハウシュミット(英語 = ゴードスミット)はハイゼンベルクと同じくヨーロッパ各地の大学で行われた物理学の公開授業に出席した。後にアメリカのマンハッタン計画で風変わりな役割を担うことになるオランダ人のハウシュミットはナチス・ドイツの台頭以前からアメリカの将来性を見越してアメリカへの移住を志していた。

 

後にマンハッタン計画で重要な役割を担うハンガリー出身のユダヤエドワード・テラーは後にドイツ電子力開発においてハイゼンベルクの片腕となるドイツ貴族のカール・フリードリッヒ・フォン・ワイゼッカーと共に物理学を学びながら文学や哲学の共通の関心によって友情を培った。

 


第一次大戦の結末としてのオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、ハンガリー生まれでユダヤ人のレオ・シラード社会主義革命の動乱が及びそうなハンガリーを避けてベルリンに留学し、マックス・フォン・ラウエに師事して熱理学を研究した。


オーストリア人女性のリーゼ・マイトナーは保守的で教育熱心な家庭でフランス語教授資格の取得などを強要されながらも物理学に対する情熱を失わず、物性の本質に迫るには物理学者と化学者の協力が必要なことを早くから見抜いていた。ベルリンに移って理想的な化学者のパートナーとして選んだのがオットー・ハーンである。


プランス・ルイ・ド・ブロイは物質の極小単位は光と波の両方の性質を持つという理論を発表して一九二九年にノーベル物理学賞を受賞する。アインシュタインはこの理論を激賞してニールス・ボーアの単純な原子モデルに疑問を呈した。また、ド・ブロイのノーベル物理学賞を受賞に先立つ一九二六年、チューリッヒ大学教授で三十八歳のシュレジンガーはアルプス山中の別荘でド・ブロイハイゼンベルクの両者の理論を統合する画期的な理論の執筆に取り組み、微分方程式を用いることによってド・ブロイが呈示した原子レベルにおける波動を完全に説明したが、この頃コペンハーゲンニールス・ボーアの研究所を訪れたポール・ディラックニールス・ボーアハイゼンベルクからの学問上の数々の問いかけに応じ、一九二六年にヒルベルトの数学理論を駆使して既存のド・ブロイシュレジンガーの理論を破綻なく説明し、相対性理論とも矛盾せず、水素のスペクトルに観察され、今まで説明のつかなかった現象までも完璧に説明した。この時期、極少世界を巡る論争は頂点に達していたのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%A4?wprov=sfti1


イレーヌ・キューリー第一次大戦後に母マリー・キューリーの助手だった三歳年下のフレデリック・ジョリオと知り合い、共通する研究課題を模索し、ジョリオと結婚して姓をジョリオ=キューリーと改姓する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%82%AA%EF%BC%9D%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC?wprov=sfti1

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%82%AA%EF%BC%9D%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC?wprov=sfti1


ニュージーランド出身のアーンスト・ラザフォード第一次世界大戦前に放射線の一種であるアルファ線の性質を調べ上げてノーベル化学賞を受賞していたが、第一次世界大戦後にはさらに窒素原子にアルファ線を照射することによって水素を発生させることに成功した。


小川秀樹結婚後「湯川」に改姓)はニールス・ボーアハイゼンベルクディラックらが日本を訪れた際、すでに中間子の理論の構想を得ていて上記三名と親しく語り合った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2?wprov=sfti1

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF?wprov=sfti1

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF?wprov=sfti1

 

参考文献

vi[1] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg” (本文に戻る)
vii[2] 以下 Michio Kaku “Einstein’s Cosmos”より。(本文に戻る)
viii[3] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” (本文に戻る)
ix[4] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” (本文に戻る)
x[5] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” (本文に戻る)
xi[6] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg”から、以下のハイゼンベルクの思考はハイゼンベルクが父や友人に宛て
た手紙による。(本文に戻る)
xii[7] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg” 
xiii[8] 石井茂「ハイゼンベルクの顕微鏡」日経 BP
xiv[9] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” 
xv[10] 石井茂「ハイゼンベルクの顕微鏡」日経 BP
xvi[11] 石井茂「ハイゼンベルクの顕微鏡」日経 BP

 

 

プロメテウス達よ (付記0)

プロローグで活躍するプロメテウス達/プロローグの参考文献 作品の目次  プロローグ トップ  

 

アルバート・アインシュタインは彼にとって奇跡の年と言われる一九一二年に相対性理論を発表したが、その一貫として質量のある物体が莫大なエネルギーを内部に秘めているという有名な数式 E=mc2 を導いた。


フロインドリッヒアインシュタイン一般相対性理論を検証する目的で日食が観測できるシベリアに観測機器とを携えて赴いたが第一次大戦勃発のせいで目的を果たせなかった。


マリー・キューリーはこれより以前、夫エール・キューリーと共に放射線物質であるポロニウムラジウムを分離し、ピエール・キューリーは不変と思われていた元素の永続性に疑問を呈した。マリー・キューリーは夫の死後、放射性物質の化学的性質を研究を継続したが本章での彼女の活躍は第一次大戦中、レントゲン車の開発したことと X 線を用いた傷痍兵の傷痍部位の特定を行ったこと、大きく言えば科学者としての良心の発露となる行動である。


イレーヌ・キューリー(後のイレーヌ・ジョリオ=キューリー)は後に夫のフレデリック・ジョリオ=キューリーと共にアルファ線照射による原子核の分裂を試みてノーベル化学賞を受賞するが、第一次世界大戦中は高校生だったが母マリー・キューリーの助手としてレントゲン車で働いた。


後に核分裂を確認することになる化学者のオットー・ハーンにはプロローグでは触れていないが、第一次世界大戦フリッツ・ハーバーと共に従軍し毒ガスの使用に加担したがこの経験は彼に深いトラウマを残したようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC?wprov=sfti1

 

この章以前に活躍したプロメテウスの中には次の二人が挙げられる。


ヴィルヘルム・レントゲン可視光線よりも波長が短く透過性が高い X線を発見し、X線は発見後わずか数週間でレントゲンの研究室の最寄の病院で診察に利用された。


キューリー夫妻の友人だったアンリ・ベクレルは X 線よりもさらに波長が短く従って透過性も強い放射線を発見し、キューリー夫妻はこれに触発されて放射性物質(ポロニウムラジウム)を発見した。

 

原子力開発には直接的には無関係であるが、アンモニアの合成に成功したフリッツ・ハーバーはプロローグで描かれる3人の科学者の一人である。

 

 

参考文献

i Kueche(台所), Kirche(教会), Kinder(子供)
ii[ii] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
iii[iii] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” 
iv[iv] Robert Reid “Marie Curie, the woman”、Suzan Quinn “Marie Curie” 
v[v] マイペディアなど

目次_プロメテウス達よ

本サイトの文章中でローマ数字で示されているのは電子出版予定の本文中では注釈にリンクしていますが本サイトでは直接のリンクは割愛させていただきます。内容は主として出典です。

 

目次(簡潔バージョン)

 

前書き

プロローグ

第1章  プロメテウスの揺籃の地

第2章  新時代の錬金術師たち 

第3章  プロメテウスの目覚め

第4章  マンハッタン計画(上)

第5章  マンハッタン計画(下)

第6章  冷戦

エピローグに代えて 〜 オットー・ハーンのノーベル賞受賞講演 「天然ウラニウム崩壊の発見から人工核分裂まで」  

 

 

目次(詳細バージョン). 

前書き

プロローグ  

アインシュタイン

キューリー夫人

フリッツ・ハーバー   

第1章  プロメテウスの揺籃の地

 ・ハイゼンベルクの少年時代

 ・ハイゼンベルクの青年時代〜ボーアとハイゼンベルク

 ・ハイゼンベルクの青年時代〜ゲッチンゲンからコペンハーゲンへ

 ・青年ハイゼンベルクの金字塔

第2章  新時代の錬金術師たち  

   ・科学の教皇が旧大陸を去る

   ・錬金術の最果ての地

   ・一時代の終わり

   ・赤ん坊は難を逃れる

     ・水先案内人(パイロット)が新大陸に達する

   ・雪の日の知らせ

第3章  プロメテウスの目覚め

   ・発見は海を渡る

   ・ボーアの怒り

   ・預言者たちは走る

   ・時は移る

   ・再び錬金術

   ・最前線からの使者

   ・コペンハーゲン

第4章  マンハッタン計画(上)
     ・パイロット(水先案内人)の終着地

   ・軍の関与と計画の拡大

     ・波濤を超えて

          ・新たな段階とボーアの参加

   ・欧州の戦況と科学者諜報部員

   ・連合軍のお尋ね者     

第5章  マンハッタン計画(下)

   ・原爆投下前の科学者トップら

   ・預言者たちのフランク・レポート

   ・ロス・アラモスの秘密会談

   ・原爆実験(1945年7月15日、16日)

   ・シカゴの預言者たち

          ・終わりの始まり

第6章   冷戦
   ・エプシロン計画

   ・マンハッタン計画の功労者たち

   ・ソビエトとの確執

   ・功労者たちのその後 

              (コンプトンフェルミアインシュタイン

     ローレンスゴードスミットシラード

     オッペンハイマーハーンとマイトナー

                  ボーアとハイゼンベルク

   ・結論    

エピローグに代えて 〜 オットー・ハーンのノーベル賞受賞講演「天然ウラニウム崩壊の発見から人工核分裂まで」

  

参考

プロローグで活躍するプロメテウス達/プロローグの参考文献

第一章 「プロメテウスの揺籃の地」で活躍するプロメテウス達/第一章の参考文献

第二章「新時代の錬金術師たち」で活躍するプロメテウス達/第二章の参考文献

第三章「プロメテウスの目覚め」で活躍するプロメテウス達/第三章の参考文献

第四章「マンハッタン計画(上)」で活躍するプロメテウス達/第四章の参考文献

第五章「マンハッタン計画(下)」で活躍するプロメテウス達/第五章の参考文献

第六章「冷戦」で活躍するプロメテウス達/第六章の参考文献

 

ウェブ版限定の内容

【『プロメテウス達よ ー ××××】タイトルの由来

オットー・ハーンを作品の"トリ "に選んだ理由 (エピローグの前書き)

 

【お知らせ】

下の画像は作りかけの本作品電子版の表紙です。出版社はお任せ出版社のアマゾン(Amazon International Services)です。ということは今のところアマゾン専用の電子ブックリーダーのキンドルのみで講読が可能だということです。こちらはそれほど高額ではありませんが有料となります。キンドル版には次のような優れた点があります。

・ 縦書き表示であること

・ 文字の大きさを変えられ、また字体を変えたり太字にしたりできること

さらにキンドルは数百冊以上の書籍を入れることができ、重量は文庫本並みです。アマゾンはお任せ出版社なので内容や誤字脱字などには自分で責任を持たないといけませんが精一杯努力する所存です。

 

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