プロメテウス達よ (付記6)

第六章「冷戦」で活躍するプロメテウス達/第六章の参考文献  作品の目次  第六章 トップ

 

ヴェルナー・ハイゼンベルクマックス・フォン・ラウエオットー・ハーン、ウォルター・ゲルラハ、パウル・ハーテック、クルト・ディーブナー、カール・フリードリッヒ・フォン・ワイゼッカー、カール・ヴィルツ、 エーリッヒ・バッヘ、ホルスト・コーシング のうちマックス・フォン・ラウエを除く科学者たちはナチス・ドイツ下で原子力開発に携わっていたとみなされ、戦後しばらくの間、ドイツの原子力開発の水準に関わる情報を極秘のうちに聴取するいわゆる「エプシロン計画」のためにイギリスの片田舎にある豪邸に軟禁されて最高の客人としてもてなされた。マックス・フォン・ラウエはその人柄を買われて他九人の科学者らと抑留生活を共にさせられた。


八月十日にオッペンハイマー、コンプトン、フェルミ、ローレンスの四人から成る科学者者小委員会が開かれ、核兵器の脅威を訴えることで意見が一致し、九月の会合ではより具体的な方策が練られた。


ロバート・オッペンハイマーは配下の科学者や技術者をねぎらう言葉とはうらはらに政府関係者との心理的な溝を深め、原子力開発の職務を辞した後に平和主義者のアインシュタインが職を得ていて首都ワシントンにも近いプリンストン大学に就職したことや弟が共産主義者だったことも災いして冷戦下で反共産主義者などによる一斉放火を浴びた。ケネディー政権下で名誉は回復されたがオッペンハイマーは政府関係の職務は謝絶し、一九六七年に喉頭がんのために死去した。享年六十三歳。


アーサー・コンプトンは日本への原爆使用が終戦を早めたという考えを固持し、戦後に日本を訪問した際も日本人にその考えをつたえるための講演などを行ってある程度の成果を得た。コンプトンはシカゴ大学で終生、宇宙線の研究に携わった。一九六二年死去。享年七十歳。


レオ・シラードシカゴ大学を挙げて広島と長崎の犠牲者を追悼するべきだと主張したが受け入れられず、物理学から遠ざかった。一九五四年に心臓発作のために死去した。享年五十六歳。

 

ドイツ降伏から原子爆弾完成後に開かれた科学者小委員会でアーネスト・ローレンス原子爆弾の日本に対する限定使用を主張したが、広島・長崎への原子爆弾投下後はアーサー・コンプトンと同じく、戦争継続を阻止し、死傷者の数を最小化するために原子爆弾投下はやむおえなかったとした。冷戦下では東海岸に転居して政治に対して何らかの影響を行使しようとしているオッペンハイマーに対する反感と彼に対する往年との友情との板ばさみに悩んだ。またローレンスはオッペンハイマーとは異なり、水素爆弾に賛成の立場を取った。ローレンスは一九五八年に消化管潰瘍など多臓器からの出血多量で死去した。享年五十七歳。


エンリコ・フェルミは表面的には原子爆弾の使用に心を動かされないようだったが、シカゴ大学に戻ってから科学教育に一層力を注ぐようになった。一九五四年に胃がんのため死去する。享年五十三歳。


ニールス・ボーアはイギリスからデンマークに帰国する準備に追われている際に広島への原子爆弾投下の知らせを聞き、間髪を居れずに平和に対する意見を新聞に発表し、以後も国連などの場で平和の必要性を説き、一九六二年に死去。享年七十三歳。


ニールス・ボーアの教え子であるヴェルナー・ハイゼンベルクは不確定性理論を確立した功績によって讃えられながらもマンハッタン計画に参加した科学者らと戦後になって心を開いて語り合うことは決してなく、恩師であるニールス・ボーアとの暖かい師弟関係を取り戻すこともなかった。一九四九年にハイゼンベルクが戦後初めてアメリカを訪れた際にはアメリカの科学者の中にはハイゼンベルクと握手をするすることさえ拒んだ者がいたという。ハイゼンベルクは一九七六年に死去した。享年七十五歳。


アインシュタインは日本への原子爆弾使用を生涯に渡って嘆いた。彼は一九五五年の始めに七十六歳で亡くなったが死の直前、日本の湯川秀樹やイギリス人哲学者でノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセルなど、世界的に名高い各界の知識人十一人に核兵器の廃絶と世界政府の構想を託し(ラッセル=アインシュタイン宣言)、その遺志はパグウォッシュ国際会議という世界政府樹立と平和を構想するための知識人の国際会議という形で実現されている。

 

戦後になってフレデリック・ジョリオナチス・ドイツの占領下のパリで共産党に入党したという衝撃の告白を行い、その結果フランス原子力委員会の会長座を追われ、以後平和運動と科学教育に専念した。1956年に妻イレーヌが死去した後、イレーヌのパリ大学教授の座を引き継ぐが二年後にイレーヌの後を追うように死去した。享年58歳。


エドワード・テラーは祖国ハンガリー共産主義圏内に入ったことでソビエト連邦を憎み、原子爆弾を超える核兵器水素爆弾)の開発を意図するようになり、同志だったレオ・シラードらと袂を分かった。


エンリコ・フェルミアメリカに呼び寄せてマンハッタン計画の先駆けとなる研究を行わせたニューヨークのコロンビア大学は戦後、日本から湯川秀樹客員教授に招き、湯川は一九四九年にニューヨークで日本人として初のノーベル賞受賞(物理学、単独)の知らせを受けた。

 

参考文献

lxxxv[1] Michael Frayn/David Burke “The Copenhagen Papers” 
lxxxvi[2] Michael Frayn/David Burke “The Copenhagen Papers” 
lxxxvii[3] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
lxxxviii[4] スペクトログラフ、ウラニウム235を分離する方法の一つ。
lxxxix[5] 表現に多少の変更を加えたが、会話文と声明文はすべて“Operation Epsilon – The Farm Hall Transcript”による。
xc[6] Samuel A. Goudsmit “Alsos” 
xci[7] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns” 
xcii[8] フォン・ラウエの人柄に関しては Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns”、 Michio Kaku “Einstein’s Cosmos”、Samuel A. Goudsmit “Alsos”などの記述を総合した。
xciii[9] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xciv[10] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xcv[11] Emilio Segrè “Enrico Fermi” 
xcvi[12] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xcvii[13] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xcviii[14] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xcix[15] Life Science Library “Matter” 
c[16] オッペンハイマーの友人で思想的に大きな影響を与えた Chevalier による。ただし、直接の引用は Brian Van De Mark “Pandora’s
Keepers~Nine men and The Atomic Bomb”。 
ci[17] オッペンハイマーの解任劇に関しては Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb”に負うところが大きい。
cii[18] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
ciii[19] A.H.Compton “Atomic Quest” 
civ[20] Atlantic Monthly (December 1946)。上記に引用されていた部分を再度引用した。
cv[21] Paul Lawrence Rose “Heisenberg and the Nazi Atomic Bomb Project”など。
cvi[22]一九七六年にハイゼンベルクが亡くなった際にアメリカ哲学協会がゴードスミットにハイゼンベルクの思い出を尋ね、ゴードスミットが語った内容による。
(David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg”からの引用。)
cvii[23] Robert Jungk "Brighter than a Thousand Suns"。ただし、表現は若干変えてある。
cviii[24] Michael Frayn “Copenhagen(Play)” 
cix[25] エドワード・テラーの消息を本文中ではわざと省いたが、テラーは同世代の科学者の中でも最も長い寿命と影響力を保ち、ロナルド・レーガンの政権下でSDI(Strategic Defensive Initiative)の技術顧問となった。