【読書ルーム(158) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 結論 】   作品の目次   このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【本文】

アインシュタイン、ボーア、ハーン、マイトナー、フェルミ、ローレンス、シーボーグなどの巨人によってもたらされた、ウラニウムプルトニウムを源として核分裂から得られる原子の火は、米国スリーマイル島原子力発電所炉心溶融事故やソ連チェルノブイリ原子力発電所放射能漏れ事故などの貴重な教訓を残しながら今もなお燃え続けている。


世界で唯一の被爆国でありまた世界で有数の地震国でもある日本では二○一一年の東日本大震災とこれに引き続く津波によって東京電力福島第一発電所炉心溶融を含む未曾有の事故が引き起こされ、多数の住民が故郷を捨てて避難することを余儀なくされた。自然の猛威に対するわれわれ人類の謙虚さが問われたこの出来事はいまだ解決を見ておらず、従来の物理学者、放射線化学者、原子力工学の専門家に地震学者を加えた新たなプロメテウス達の活躍が期待される。


一方、水素やリチウムを用いる核融合は二十一世紀の初頭になってもその莫大なエネルギーを制御する方法が知られていない。そして、核兵器アメリカ、イギリス、ソビエトなど超大国などによって保有されるだけではなく、ソビエト崩壊後の世界において中国、インド、パキスタン、イラン、北朝鮮など、旧来は発展途上国だと考えられていた国々によっても保有されるに至った。しかしながら、人類史上初めて核兵器の故意の使用による大規模な殺戮と破壊が広島において行われた後、第二次世界大戦終結から六十年以上を経た今なお、広島へのウラニウム爆弾投下のわずか三日後に起きた長崎へのプルトニウム爆弾投下が、人類史上最後に起きた核兵器行使の例に留まっている。


マンハッタン計画は後世に残る業績を達成した、ノーベル賞受賞者だけを挙げてもでも十指に余る科学者を輩出した。戦争中において宗教上の理由から決してマンハッタン計画には一切関わらず、ナチス政府を嫌ってイギリスに帰化したマックス・ボーン(ボルン)は、ドイツの原子力開発計画で中心的な役割を担ったヴェルナー・ハイゼンベルク(一九三二年)、アメリ原子力開発計画の水先案内人(パイロット)となったエンリコ・フェルミ(一九三八年)、スイスで理論物理学に専念したヴォルブガング・パウリ(一九四五年)らの教え子たちに遅れ、一九五四年にノーベル賞を受賞した。ローマでフェルミの片腕として中性子照射の実験に携わり、リュックサックを背負ってローマの街に元素の買出しに出かけたエミリオ・セグレは一九五九年にアメリカ人としてノーベル物理学賞を受賞し、ローレンスの教え子で日本に原子爆弾を落とした戦闘機エノラ・ゲイに追随して長崎上空で日本人の同輩に宛てた手紙を投下したルイス・アルヴァレスは一九六八年にノーベル物理学賞を受賞した。ナチス・ドイツ原子爆弾開発するやもしれないという悪夢に捉えられてシラードと共にロングアイランドで休暇中のアインシュタインのもとに車を走らせ、フェルミが完成した世界初の原子炉をプルトニウム生成のための増殖炉に改造したユージン・ウィグナーは量子力学発展への貢献を理由に、ロス・アラモスのオッペンンハイマーのもとで理論部の部長を勤めたハンス・ベーテは太陽などの恒星が輝くしくみを解明したことを理由にそれぞれ一九六三年と一九六七年にノーベル物理学賞を受賞した。現代の錬金術師グレン・シーボーグは一九四四年に原子番号九十五番の人工元素アメリシウムの生成に成功したが、その後も単独または協働で原子番号百三番に至るまでの多くの人工元素を生成し、新元素生成の理論と方法を提唱した物理学者のマクミランと共に一九五一年にノーベル化学賞を受賞した。ニールス・ボーアの息子アーゲ・ボーアは一九七五年に数人の科学者と共同でノーベル物理学賞を受賞した。この他、理論の
基礎を築いたプランクアインシュタイン、ボーアらの年長の物理学者らと並んでマンハッタン計画開始以前にノーベル賞を受賞したジョリオ=キューリー夫妻、サイクロトロンを開発したローレンス、重水の発見によってノーベル化学賞を受賞してマンハッタン計画においてはガスによるウラニウム235の分離に携わったユーリー、それから核分裂を確認したオットー・ハーンやイシドール・ラバイら、マンハッタン計画に関連して第二次世界大戦中にノーベル賞を受賞した科学者も後世にまで名を残すであろうcix[25]。


自然の神秘に挑む科学者たちの姿勢は古今を通じて不変である。しかし、科学者中の戦士とも言うべきジェームズ・フランクと預言者とも言うべきレオ・シラードが日本への原子爆弾投下に頑強に反対して政府への意見書を起草し、シーボーグら次世代を担う科学者がこぞって二人の考え方に共鳴してその意見書に署名したように、マンハッタン計画においてなくてはならない重要な役割を果たしたオッペンハイマーがその後一貫して水素爆弾の開発に反対したように、またフェルミ、コンプトン、ラバイ、ベーテら、大勢の名だたる科学者たちが、科学者の良心を代弁して国家権力に対抗したオッペンハイマーを敢然として擁護したように、あるいは生来内向的で寡黙だったマンハッタン計画の「ローマ法王ニールス・ボーアが国連という国際舞台において声を大にして知識の分野における国境の撤廃を説いたように、科学者たちはもはや自分達の研究成果が一人歩きして大量破壊や大量殺戮を引き起こすのを手をこまねいて静観したりはしないのである。

(完)

 

【参考】

核融合炉 (ウィキペディア)

 

【お知らせ】

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・ 縦書き表示であること

・ 文字の大きさを変えられ、また字体を変えたり太字にしたりできること

さらにキンドルは数百冊以上の書籍を入れることができ、重量は文庫本並みです。アマゾンはお任せ出版社なので内容や誤字脱字などには自分で責任を持たないといけませんが精一杯努力する所存です。

 

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【読書ルーム(157) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 9/9 (ボーアとハイゼンベルク)】   作品の目次   このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

戦争の傷跡は歳月を経るにつれて風化し、第二次世界戦争中にはドイツ人や日本人全般を憎悪していた旧連合国の国民も、平和が訪れた後にはナチス軍国主義の狂気だけを抽象的に非難するようになっていった。しかしながら、ドイツの学問の全盛時代だった一九二十年代にハイゼンベルクがゲッチンゲンやコペンハーベンで世界各国から集った、言葉や文化的背景の異なる学生や学者との間に理論物理学を絆として培った友情は戻ってはこなかった。


ゴードスミット(オランダ語 = ハウシュミット)は終生ハイゼンベルクを許さなかった。ハイゼンベルクに対する怒りは両親や友人をナチスの魔の手によって失いながら自分だけが生き延びたことに対する自身の罪の意識と重なり、ゴードスミットは「仕事にかまけて移民局に行くのを一週間遅らせたばかりに・・・。」等々と語って自分自身を責めつづけ、その一方で戦争直前にアメリカの大学から教授のポストに招聘されながらそれを断ったハイゼンベルクを憎んだ。ハイゼンベルクが戦争中に自分の両親を助けようとして尽力したという話を聞いた後でさえ、「ハイゼンベルクは何か別の方法で何とかしてくれてもよかったはずだ。」とゴードスミットは思い続けたcvi[22]。


一九二十年代にニールス・ボーアハイゼンベルクとの間に培われた暖かい関係もやはり完全な形で元に戻ることはなかった。


一九四六年の夏、ハイゼンベルクはすでに西側連合国から協力者としての信頼を得、1941年の秋のボーアとの会話が戸外ではなく、自宅の書斎で行われたと主張した。なるほど、ドイツ占領下のコペンハーゲンで科学界の重鎮として信頼されていたボーアがドイツ人科学者として多くのデンマーク人に顔を知られていたハイゼンベルクと共に研究所の裏にある公園を散策するというのは不自然である。また、公園はボーアの自宅からかなり離れた場所にあり、電力節減のために夜間にも街灯が点灯されなかったコペンハーゲンの街中を通って二人がわざわざ公園に出向いたというのも納得がいかない。また、ボーアは自宅に盗聴器が据えつけられていたということに関してもそのような事実は全くなかったと断言した。


その後の二人の手元では、学会において耳新しい発見があった際や毎年の誕生日などに親愛の情に満ちた文言を含む手紙や挨拶状の草稿が書かれたりタイプで清書されたりしたが、それらのうち多くは投函されずに他の書類の中に埋もれ、お互いの元に届いた手紙や挨拶状は残っておらず、一九六二年にボーアが七十七歳で亡くなるまでにボーアとハイゼンベルクが以前のような親密さを終に取り戻せなかったことを物語っている。一九四九年に戦後初めてアメリカを訪れたハイゼンベルクアメリカの科学者たちは冷ややかに迎え、ある者はハイゼンベルクと握手をすることさえ拒んだcviii[24]。モーツアルトやベートーベンの音楽、そして山歩きと夜空の星の下でのキャンプ・ファイアーをこよなく愛した、科学界のモーツアルトにも比せられるべき明朗な早熟の天才はその後、陰鬱で気難しい初老の、そして年老いた学者へと変貌していった。戦争とナチスハイゼンベルクの性格を変えた。


ハイゼンベルクの門下からは日本人で二番目のノーベル賞受賞者となった朝長振一郎など、ハイゼンベルクの苦悩と寂寥を理解することはあっても決して経験することのない多くのすぐれた物理学者が巣立ち、ただハイゼンベルクが打ち立てた不確定性理論という学問業績だけが科学史上の金字塔として燦然と光彩を放ち、今なお理論のみならず電子工学を始めとする各種の応用分野にまで指針を与え続けている。

(読書ルーム(158) 「結論」に続く)

 

【参考】

ウェルナー・ハイゼンベルク (ウィキペディア)

ニールス・ボーア (ウィキペディア)

 

朝永振一郎 (ウィキペディア)

リチャード・ファインマン (ウィキペディア)

 

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【読書ルーム(156) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 8/9 (ハーンとマイトナー)】  作品の目次  このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【本文】

ヨーロッパでは、人生の丁度三分の一に当たる三十年間を実験室の中だけでつれ添ったリーゼ・マイトナーとオットー・ハーンが一九六八年に共に九十歳前後の高齢で相次いで没した。イギリスのファーム・ホールで自殺を思いとどまったハーンはドイツに帰国した後、亡くなる二年前までドイツ国内で数々の名誉職を歴任したが、ハーンとマイトナーが亡くなる二年前の一九六六年、アメリカ政府はハーンとマイトナーにハーンの助手を勤めたシュトラスマンを加えた三人に、エンリコ・フェルミ功労賞を授与した。同賞が初めてアメリカ人以外の科学者に与えられ、しかも受賞者のうち二人までが旧敵国であるドイツの国民だったという事実は、マンハッタン計画に関係した科学者やアメリカ政府、そしてアメリカ国民が第二次世界大戦中にイギリスやアメリカを始めとする連合国を震撼させたナチス・ドイツの狂気、そして戦前においては他国を凌駕し、ナチスの下で保護されたドイツの科学に対する畏怖をすでに過去の記憶として葬り去り、原子力開発におけるドイツ人科学者の功労だけを純粋に称えることができるようになったことを示していた。しかも三人への功労賞の授与に当たって、高齢のハーンらを思いやり、アメリカ政府の要人がわざわざドイツに出張して授賞式を行うという異例の措置が取られた。イギリスのケンブリッジで余生を送り、授賞式に出席しなかったマイトナーのもとには現代の錬金術師となったグレン・シーボーグが賞状とメダルを届けた。

(読書ルーム(157) 「ボーアとハイゼンベルク」に続く)

 

【参考】

オットー・ハーン (ウィキペディア)

リーゼ・マイトナー (ウィキペディア)

 

グレン・シーボーグ (ウィキペディア)

 

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【読書ルーム(155) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 7/9 (オッペンハイマー)】   作品の目次  このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【本文】

翌年、共和党選出の年老いた大統領アイゼンハウアーが去り、民主党ジョン・F・ケネディーが四十台半ばの若さで大統領に就任すると、トルーマン大統領の二期目からアイゼンハウアー大統領の時代にかけての行き過ぎた共産主義排斥が見直され、オッペンハイマーの諮問委員会への復帰も取り沙汰たれた。しかし、そのためには今一度公聴会を開いてオッペンハイマーを覆った過去の事実に関する疑惑を晴らす必要があった。オッペンハイマーはこの申し出を丁重に断った。長年の激務と喫煙の過剰でオッペンハイマーの健康は衰え、オッペンハイマーは緑に覆われたニュージャージーの自宅とワシントンDCの間を行き来する生活はもはやしたくないと思っていた。そこで二年後の一九六三年、アメリ連邦政府マンハッタン計画での功績を称えてオッペンハイマーにエンリコ・フェルミ功労賞を授与することに決定した。授賞式が行われるほんの数週間前にケネディーはダラスで暗殺され、オッペンハイマーケネディーに替わって大統領に就任したジョンソンから賞状とメダルを受け取った。


オッペンハイマーは一九六七年、六十二歳でニュージャージー州の自宅で喉頭がんのために亡くなった。オッペンハイマーが亡くなる三年前の一九六四年には、日本への原爆投下に最後まで頑強に反対したジェームズ・フランクとレオ・シラードが共に他界した。

(読書ルーム(156) 「ハーンとマイトナー」に続く)

 

【参考】

ロバート・オッペンハイマー (ウィキペディア)

 

ジェームズ・フランク (ウィキペディア)

レオ・シラード (ウィキペディア)

 

ハリー・トルーマン大統領 (ウィキペディア)

ドワイト・アイゼンハウアー大統領 (ウィキペディア)

ジョン・F. ・ケネディー大統領 (ウィキペディア)

 

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【読書ルーム(154) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 6/9 (シラード)】   作品の目 このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

シラードは生物学に転向した後も預言者を辞めはしなかった。シラードは機会がある毎に走り、平和の必要性を説き続けたが、その方法はオッペンハイマーが試みて挫折したような政治に接近する方法でもなく、水素爆弾の開発に闇雲に反対することでもなかった。


イシドール・ラバイや生前のエンリコ・フェルミと同様、シラードは科学の限界に挑戦したいと思う科学者の限りない欲求を前提とし、そして核兵器に限らず、化学兵器生物兵器が実証精神の発露から、あるいは単にモノを作りたいという人間一般の欲求から作られてしまうことはしかたがないことだとシラードは考えた。ただ、大量破壊兵器を使用する最終的な決定さえ行われなければいいのだとシラードは考えた。シラードにとって、広島と長崎への原子爆弾投下を言論の力で阻止できなかったことは一生に悔いを残す不覚であり、二度とこのようなことを繰り返させてはならないと固く心に誓っていた。オッペンハイマーの解任はシラードにとって手痛い出来事だったが、一九五一年に中国本土を核兵器で攻撃することを主張した共和党最右翼のマッカーサー将軍が解任されたように、一条の光も見えてた。シラードは他の大多数の科学者たちと同じく、テラーが公聴会でとった行為には反感をもっていたが、そのテラーとシラードが交友関係を保つことができたのは、テラーと同じハンガリー出身のシラードがテラーが抱いていた社会主義に対する反感と生まれ育った祖国ハンガリーに自由を求めるテラーの心情を理解できたからだった。


「良心のある人間ならば、核兵器が自分の頭上で炸裂するのを恐れる気持ちと同じくらいに強く、核兵器を使用したくない、できるならば人を殺したりしたくないと考えている。それが全ての基本なのだ。」とシラードは考えていたが、そのシラードが自分の考えを他国の人々と確かめ合う機会が一九五七年の夏にやってきた。


カナダのノヴァスコシアで開かれた、平和維持の方法について語り合う国際会議ではシラードを含む各国の代表から平和維持に関する活発な意見が出され、この会議で採択された事柄にはワシントンDCとモスクワを結ぶホットラインの開設、核兵器開発規模の縮小と核兵器保有を漸次逓減させることなどが提唱された。これらの主張がシラードのものであるのかどうかは、フランク・レポートの真の起草者と同様で明らかではないが、この国際会議で決定されたことの全ては平和主義者で発明家でもあったシラードが考え出すかあるいは熱心に支持しそうな内容だった。


一九六○年、「異なる意見を持ちながら、交友関係を保っている、マンハッタン計画に貢献した科学者の二人。」と目されていたシラードとテラーはテレビ局に要請されて平和維持に関する討論番組に出演した。二人だけでいる時には母国語のハンガリー語で話す二人はテレビ・カメラの前では当然のことながら英語で激論を戦わせた。


「シラード教授はソ連を無責任なほど信頼しています。」とテラーが言ったの対し、シラードは「テラー教授は無責任なほどソ連のことを疑ってかかっています。」と切り返し、放送スタジオを埋め尽くした視聴者からは拍手と笑いが起きた。二人の議論は平行線をたどったが、番組の終わりに「握手をしましょう。今握手しておかないと、もう握手する機会がないかもしれませんから・・・。」と言ってテラーに手を差し出したシラードの毒舌も視聴者の笑いを誘った。核兵器保有をめぐって相違する意見を激しく戦わせながら、一九三九年にはフェルミの学問に対する自由な考え方にこぞって反対し、大統領に訴えるための書簡を携えてアインシュタインのもとに車を走らせた二人は、フェルミが一生涯追求し続けた「科学知識の万人による共有」の理念を期せずして実現していた。

(読書ルーム(155) 「オッペンハイマー」に続く)

 

【参考】

レオ・シラード (ウィキペディア)

エドワード・テラー (ウィキペディア)

ダグラス・マッカーサー将軍 (ウィキペディア)

 

フランク・レポート (ウィキペディア)

 

【映画ルーム(160) 博士の異常な愛情 〜 古色蒼然の恐怖戯画… 6点】

 

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【読書ルーム(153) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス火山達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 5/9 (ゴードスミット)】  作品の目次  このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

アルソス・ミッションでのヨーロッパでの任務を終え、アメリカで大学教授の職に復帰した後、要請があった場合にだけアルソスが継続的に使命とするドイツ原子力開発計画の全容を解明する仕事に従事していたゴードスミットは、アルソス・ミッションでの自分の体験を語る本を執筆しようと思い立った。しかしそれを聞いたレズリー・グローブスは心中穏やかではなかった。連合国内部の規約により、イギリスに抑留された十人の科学者の会話を盗聴したエプシロン作戦は全く秘密にしなければならなかったのである。グローブスはゴードスミットにこの規約について念を押し、体験記の出版を諦めさせようとした。しかしゴードスミットは体験記執筆の詳細な意図をグローブスに語り、エプシロン作戦の存在に関しては絶対に秘密を守ることと、出来事の核心を明らかにするためにどうしてもエプシロン作戦の盗聴記録から引用しなければならない場合でも、尋問などの他の方法によって知ることができたと書くと約束した。ゴードスミットの意図はナチス・ドイツの脅威と暴虐を暴き、その上で、それまで世界の最先端を行っていると信じられていたドイツの科学がナチスによっていかに抑圧されたかを明らかにし、科学と道徳の両面におけるアメリカなど民主主義各国の優位性を論証することだった。

 

イギリスでの抑留から解き放たれて同僚の科学者たちと共に飛行機でドイツに帰された後、ハイゼンベルクはドイツの学問の復興に努めると共に、戦争中にナチス政府のもとで自分が取った行為の釈明に尽力した。ハイゼンベルクはまず、西側に対する自分の協力姿勢を明らかにするために次のように語った。
「私が空襲で脅かされたカイザー・ウィルヘルム研究所をフランス系住民が多く、戦後にフランスに帰属することになったエルザス=ロートリンゲンアルザス=ロレーヌ)の中心シュトラスブルグ(ストラスブール)の郊外に移したのは、戦後になって研究成果をソビエトに摂取されないよう、仮研究所をできるだけ西に置きたかったからです。」
その後、アメリカの原子爆弾開発過程が明らかにされるにつれ、ハイゼンベルクはドイツ人の科学者の道義性と知的水準を弁護し、世界初の原子力利用の成功をアメリカに譲ったことについてはドイツでは目的を発電に絞って原子力開発が推進されたこと、そして連合軍の間断ない爆撃によって実験室を転々と移転せざるを得なかったこと、中性子の速度を調整する物質として当初は重水が最適であると考えられたが、一九四三年に世界で唯一重水を量産することのできるノルウェーの工場が連合軍によって破壊されたことなどをドイツが原子力開発を達成できなかった理由として掲げたcv[21]。


ハイゼンベルクのこれらの釈明にゴードスミットは全く耳を貸さなかった。また、英語に翻訳されたファーム・ホールでの盗聴記録の隅々にまで目を通しながらもゴードスミットは昔の朋友らの間で交わされたシェークスピア劇まがいの言葉の行間まで読んで彼らの隠された心情を理解しようとは思わなかった。それはゴードスミットの意図でも職務内容でもなかった。
「そんなこと(原子爆弾の開発と日本への投下)をするなんてアメリカ人は恐ろしいやつらだ。気違い沙汰だ。」と言ったフォン・ワイゼッカーの正義感も、オットー・ハーンの女々しい絶望も、科学者に対して非協力的だったとしてナチス政府の行政を責めるハイゼンベルクの負け惜しみとも言い訳ともつかない言葉も、ハイゼンベルクの心情を代弁しているかのような「われわれが成功しなかったことについて言い訳をする必要はないと思う。でも、われわれは成功したくなかったということを認めるべきだ。」というフォン・ワイゼッカーの言葉も、全てがゴードスミットには無関係だった。ゴードスミットはただ、ナチスの悪を世に対して示し、その一環として原子力開発計画が存在し、邪悪な政府の下で優れた科学者たちの努力があだ花に終わったという事実を語ろうと思った。

(読書ルーム(154) 「シラード」に続く)

 

【特注】

サミュエル・ゴードスミット(オランダ語=ハウシュミット)はプロメテウスとしては他の科学者とはかなり異質である。ただゴードスミットには原子力開発に力を注いだ科学者の多数を占めた物理学者と肩を並べられる物理学の知識があり、多くの物理学者を知己とし、とりわけマンハッタン計画で水先案内人(パイロット)の役割を果たすことになったエンリコ・フェルミアメリカに招いたという功績がある。また理論の域を出ることがなかったドイツの原子力開発計画の全容を明らかにしたのもゴードスミットだった。

 

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【読書ルーム(152) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 4/9 (ローレンス)】 作品の目次  このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

人類に原子の火をもたらしたもう一人の巨人、サイクロトロンを開発し、現代の錬金術師とも言うべきマクミランとシーボーグを育てたアーネスト・ローレンスは、水素爆弾開発の必要性を熱心に提唱しながら衰えていく健康と戦った。大学での授業や学生との懇談の際にローレンスが見せる大学教授としての学識や洗練された態度には以前と変わるところはなかったが、学生の間ではローレンスは帰宅後に酒に溺れているという噂が立った。貧しかった大学学部生時代から一貫して道具とそれがもたらすより豊かな世の中を模索し続けてきたホモ・ファーベル(道具人)ローレンスはサイクロトロンの開発によって放射線医療などの新しい応用分野を切り開いた一方で、サイクロトロンの開発が核兵器という破壊手段をもたらしたことや冷戦下において科学者が背負わざるを得なくなった十字架の重さに耐え切れなかったのかもしれない。そして学生たちの噂を裏付けるかのように、ローレンスは一九五八年、五十七歳の時に消化器官の潰瘍と出血で倒れた。死の床でローレンスはサイクロトロンの科学的成果の確認を焦って新婚旅行を中断したことを愛妻モリーに詫びた。ローレンスが新婚旅行を中断してまでもその建設を追求し、放射線の多岐に渡る応用を志向した、サイクロトロン共和国とも呼ばれるべきカリフォルニア大学バークレー校の放射線研究所は今や大きく成長し、多くの優れた科学者が広範囲に渡る優れた業績を挙げ、放射線が秘めるさらなる可能性を追求し続けていた。
「新婚旅行をやりなおせなかったことだけが人生に残る悔いだ。」とローレンスは死の間際に語った。

(読書ルーム(153) 「ゴードスミット」に続く)

 

【参考】

アーネスト・ローレンス (ウィキペディア)

エドウィン・マクミラン (ウィキペディア)

グレン・シーボーグ (ウィキペディア)

 

サイクロトロン (ウィキペディア)

 

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