「オッペンハイマー」 に期待するもの その3

次にローレンスですがこの人の科学史上の最大の功績は放射線医療の確立だとわたしは思うのですが、天然ウラニウムの0.7%を占めるウラニウム235の分離(いわゆる濃縮)にも多大な貢献があります。この人のノーベル賞受賞理由は量子加速装置、いわゆるサイクロトロンの発明です。ただこの人は学生時代に台所用品のセールスで学費を稼いでいたせいか、他人の意見やその場の空気にころっと惑わされるきらいがあります。それは長所と言えないことはありませんが、彼が公聴会で親友だったオッペンハイマーを守りきれなかったという生涯の悔いを残してこの世を去る原因にもなったようです。

 


その次はコンプトンですが、絶版になっていたこの人の自伝を米国アマゾンで入手して読んだところ、やはりと言おうか、聞きしに勝る宗教的信念を持った人のようで、それはハーバード大学学長を務めた兄のカールにも共通しているようです。兄弟共に物理学者で兄は敵機・敵船察知の技術であるレーダーを開発し、弟でノーベル賞受賞者のアーサーの方は生涯宇宙線を研究して原爆製造を推進するというよりはシカゴ大学を拠点とした基礎研究の成果から応用に携わる者が参照するべきものを抽出する交通整理の役割を担いました。こう記述すると専守防衛に役立つので兄カールが携わったレーダーの方が兄弟の平和の理念に合致するようですが、いえいえとんでも無い! 三角州から成る平坦な地形の広島市中心部に核爆発による放射性物質が周囲の山を越えずに広島市内に拡散されるようにするには地上何メーターで原爆が炸裂すればいいのかがアラモゴルドの核実験によって計算されていましたが、それを可能にしたのがカール・コンプトンのチームが開発したレーダーだったわけです。平和主義者とは言え、罪つくりな兄弟でした。と言おうかこれは平和と武力という二律背反の永遠の問いの一例でしょうか。

 


最後に配役が記載されていないフェルミがいます。実はこの人は科学者四巨頭の中で唯一生まれも育ちも外国(イタリア)で会議が開かれた時点ではアメリカの市民権を申請中、つまりアメリカでは参政権がない人でした。実はわたしは小学生の頃からこの人を英雄視していますがそれはユダヤ系イタリア人だったこの人の奥さんが英語で書いたフェルミの伝記の日本語訳を読んだことがきっかけでした。フェルミ夫人はまたアメリカに移住して実力を開花させたイタリア系移民のことなどを執筆していますが夫人が書いた家族史によると戦後になるまで夫人は夫がロス・アラモスで担っている役割を具体的には知りませんでしたが、夫が通うマンハッタンのコロンビア大学の通勤圏にある自宅で隣は同じ大学の教授で重水の発見によってノーベル化学賞を受賞したハロルド・ユーリーの家(フェルミ中性子線照射による核分裂の惹起によってノーベル物理学賞を受賞)で夫人同士が子供のことや庭木のことで情報を交換した微笑ましい様子が描かれています。実は、生涯の目標だった核分裂の連鎖反応惹起に成功したフェルミウラニウム235の抽出は不可能だと思っていました。でもヴァネヴァー・ブッシュが政府側に立って主導したマンハッタン計画の一環でハロルド・ユーリーはガスを用いた化学的方法でウラニウムを濃縮するという密命を受け、物理的方法でウラニウム濃縮を指示されていたローレンスと秘密裡にしのぎを削っていてしかも当事者以外は戦後までそのことを知らなかったのだそうです。 まあ、わたしがフェルミを評価するのはフェルミ原子力の商業発電への応用だけに自分の知恵とエネルギーを注いだせいなのですが、彼が天然ウラニウムの僅か0.1%を占める放射性同位元素の核分裂を成功させたことはオッペンハイマーが率いる原子爆弾のチームに成功の確信を与え、大掛かりなウラニウム濃縮、プルトニウム生成などに拍車がかかりました。その結果はアメリカに帰化したフェルミナチスドイツの下で原子力開発に取り組んだゲッチンゲン大学でのフェルミの同期ハイゼンベルクの両者にとって残酷なものでした。 ハイゼンベルクについて言えば、彼は原子力発電の可能性にフェルミと共に大きな夢を抱いていましたが、第二次世界大戦勃発によってフェルミとの情報交換ができなくなった後、原子力大量破壊兵器に応用できることを知る同僚科学者にはその可能性をナチス政府には明かさないように(あるいは可能性はあってもウラニウム濃縮は非常に困難だとしか語らなかったのかもしれませんが)、予算は直ぐに実現可能な兵器開発に充てられる戦時下の厳しい状況で研究を続けました。

 


明日は「オッペンハイマー」の日本での公開の日ですが、わたしが住む関東では天気が悪いので行こうかどうしようかと思っています。