プロメテウス達よ (付記1)

第一章 「プロメテウスの揺籃の地」で活躍するプロメテウス達/第一章の参考文献  作品の目次

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少年だったヴェルナー・ハイゼンベルク第一次世界大戦でのドイツの敗北に感化され、学問を究めるきことによってドイツの文化復興に寄与しようと心に決めるが実験に重きを置く当時の物理学の潮流の中で必ずしも成績優秀ではなかった。しかし、実験を置いて理論に没頭する彼をゲッチンゲン大学の教授やデンマーク人物理学者のニールス・ボーアは暖かく見守る。ド・ブロイの理論に基づいてアインシュタインらが投げかけた疑問から思考を重ね、ハイゼンベルクは二十四歳の時に「極少粒子の一と速度を同時に知ることはできない」といういわゆる不確定性理論に逢着し、一九三二年に三十二歳でノーベル物理学賞を単独受賞する。

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アルバート・インシュタイン第一次大戦後に相対性理論に対してではなく、彼の業績の中では比較的重要性の低い光電効果によってノーベル賞を授与されたが、その目的は彼をスエーデンの首都に呼んで相対性理論の講演をさせるという後にも先にも例がないものだった。この後、アインシュタインニールス・ボーア傘下に集まった若い物理学者、特にハイゼンベルクに対して理論上の問いを呵責なく投げかける。

 

アーサー・エディントンはイギリス人の物理学者で平和主義者。第一次世界大戦後、大西洋上で日食があった際にアインシュタイン相対性理論を実測で証明した。ただし観測誤差が理論の証明となる重力による歪み(ニュートン力学による予測値からの乖離)の計測値より大きかった。


量子力学を創設したマックス・プランクの直接の弟子であるマックス・フォン・ラウエベルリン大学の教授でアインシュタインの若い頃からの親友であり、レオ・シラード(次章以降のプロメテウス)を指導した。彼の業績はX線解析による金属構造の解析で原子力開発とは直接的には関係ないかもしれないが、その人柄や行動がプロメテウス達に及ぼした影響は計り知れない。


ニールス・ボーアはこの章でプランクの理論などを取り入れた原子核モデルを構築し、その既往席によってノーベル物理学賞を受賞する。また、新旧大陸を往復して自身がコペンハーゲンに設立した研究所の拡充を図った。

 

この少し前にドイツに留学した日本人物理学者の仁科芳雄(第三章以降のプロメテウス?)はニールス・ボーアの人柄とボーアがデンマークの首都コペンハーゲンに設立した研究所の構想に共感し、デンマークで少なからぬ日を過ごしたがこの期間中に発表したのがクライン=仁科の理論である。仁科は一九四五年八月六日に広島に投下された爆弾が原子爆弾であると認定した。


後日本への原子爆弾投下の直前に核拡散防止を提唱し無警告で日本に対して原子爆弾を使用することに反対する科学者の良心の意見書、いわゆるフランク・レポートを作成することになるジェームズ・フランクはこの頃はドイツで実験物理の第一人者であり、一九二五年に周波数の単位に名前を残すヘルツと共にノーベル物理学賞を受賞する。


イギリスに移住後に多くの教え子に遅れてノーベル賞を受賞することになるマックス・ボルン(英語 = ボーン)はこの頃ゲッチンゲン大学ハイゼンベルグパウリらの教え子に鋭い疑問を投げかけることによって彼らの理論の精緻化を促し、また自らも数学に秀でたパスカル・ジョルダンともに弟子たちの理論の精緻化に取り組んだ。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AA?wprov=sfti1

 

後にマンハッタン計画で科学者と技術者の頂点に立つことになるジュリアス・ロバート・オッペンハイマーアメリカの最高学府のハーバード大学で化学を専攻して三年で優等賞とともに学士号を取得した後、物理学に転向するが留学先のイギリス、カベンディッシュ研究所で冷遇され、マックス・ボルンの知己を得てゲッチンゲン大学に移籍する。この頃は精神的に不安定で様々な言語を学び、その言語で書かれた古典に触れることによって精神の安定を試みた。

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イタリア出身の物理学者エンリコ・フェルミは学生時代に約七ヶ月間ゲッチンゲン大学で学んだが、ガリレオやボルタなどの、ルネッサンス期以降の実証科学の伝統に染まった彼は理論一辺倒のゲッチンゲンでの学究姿勢をあまり好まず、ゲッチンゲン大学も理論と実証の両刀使いの稀代の天才に成長していくフェルミの将来を見抜くことはなかった。


学生時代のサミュエル・ハウシュミット(英語 = ゴードスミット)はハイゼンベルクと同じくヨーロッパ各地の大学で行われた物理学の公開授業に出席した。後にアメリカのマンハッタン計画で風変わりな役割を担うことになるオランダ人のハウシュミットはナチス・ドイツの台頭以前からアメリカの将来性を見越してアメリカへの移住を志していた。

 

後にマンハッタン計画で重要な役割を担うハンガリー出身のユダヤエドワード・テラーは後にドイツ電子力開発においてハイゼンベルクの片腕となるドイツ貴族のカール・フリードリッヒ・フォン・ワイゼッカーと共に物理学を学びながら文学や哲学の共通の関心によって友情を培った。

 


第一次大戦の結末としてのオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、ハンガリー生まれでユダヤ人のレオ・シラード社会主義革命の動乱が及びそうなハンガリーを避けてベルリンに留学し、マックス・フォン・ラウエに師事して熱理学を研究した。


オーストリア人女性のリーゼ・マイトナーは保守的で教育熱心な家庭でフランス語教授資格の取得などを強要されながらも物理学に対する情熱を失わず、物性の本質に迫るには物理学者と化学者の協力が必要なことを早くから見抜いていた。ベルリンに移って理想的な化学者のパートナーとして選んだのがオットー・ハーンである。


プランス・ルイ・ド・ブロイは物質の極小単位は光と波の両方の性質を持つという理論を発表して一九二九年にノーベル物理学賞を受賞する。アインシュタインはこの理論を激賞してニールス・ボーアの単純な原子モデルに疑問を呈した。また、ド・ブロイのノーベル物理学賞を受賞に先立つ一九二六年、チューリッヒ大学教授で三十八歳のシュレジンガーはアルプス山中の別荘でド・ブロイハイゼンベルクの両者の理論を統合する画期的な理論の執筆に取り組み、微分方程式を用いることによってド・ブロイが呈示した原子レベルにおける波動を完全に説明したが、この頃コペンハーゲンニールス・ボーアの研究所を訪れたポール・ディラックニールス・ボーアハイゼンベルクからの学問上の数々の問いかけに応じ、一九二六年にヒルベルトの数学理論を駆使して既存のド・ブロイシュレジンガーの理論を破綻なく説明し、相対性理論とも矛盾せず、水素のスペクトルに観察され、今まで説明のつかなかった現象までも完璧に説明した。この時期、極少世界を巡る論争は頂点に達していたのである。

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イレーヌ・キューリー第一次大戦後に母マリー・キューリーの助手だった三歳年下のフレデリック・ジョリオと知り合い、共通する研究課題を模索し、ジョリオと結婚して姓をジョリオ=キューリーと改姓する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%82%AA%EF%BC%9D%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC?wprov=sfti1

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ニュージーランド出身のアーンスト・ラザフォード第一次世界大戦前に放射線の一種であるアルファ線の性質を調べ上げてノーベル化学賞を受賞していたが、第一次世界大戦後にはさらに窒素原子にアルファ線を照射することによって水素を発生させることに成功した。


小川秀樹結婚後「湯川」に改姓)はニールス・ボーアハイゼンベルクディラックらが日本を訪れた際、すでに中間子の理論の構想を得ていて上記三名と親しく語り合った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2?wprov=sfti1

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF?wprov=sfti1

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF?wprov=sfti1

 

参考文献

vi[1] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg” (本文に戻る)
vii[2] 以下 Michio Kaku “Einstein’s Cosmos”より。(本文に戻る)
viii[3] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” (本文に戻る)
ix[4] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” (本文に戻る)
x[5] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” (本文に戻る)
xi[6] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg”から、以下のハイゼンベルクの思考はハイゼンベルクが父や友人に宛て
た手紙による。(本文に戻る)
xii[7] David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg” 
xiii[8] 石井茂「ハイゼンベルクの顕微鏡」日経 BP
xiv[9] Michio Kaku “Einstein’s Cosmos” 
xv[10] 石井茂「ハイゼンベルクの顕微鏡」日経 BP
xvi[11] 石井茂「ハイゼンベルクの顕微鏡」日経 BP