【読書ルーム(129) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 エプシロン作戦 1/5 】  作品の目次

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【あらすじ】

ドイツの降伏後、アメリカ軍のアルソスや英仏の兵士らに拘束された世界的に名だたる10 人のドイツ人科学者らはまず、フランスのベルサイユ郊外に、そしてイギリスのケンブリッジ郊外の田舎風豪邸に軟禁された。これは敗戦の混乱の最中に彼らがソ連や東側に拉致されないよう保護するのが目的だったが、加えて第二次世界大戦中のナチスドイツの原子力開発の水準をドイツ人科学者に知られないよう、秘密裏に探る目的があった。

 

【特注】

エプシロン計画と名付けられた上記後者の目的のために科学者らの会話は全て屋敷の壁の背後に設置された盗聴器等によってドイツ語が堪能な連合軍諜報部員によって盗聴され、必要があれば録音されまた文字起こしされた。つい最近になって科学者全員が死去して何十年目かの節目ということでその抜粋が原文・英訳ともに公開されました(Operation Epsilon – The Farm Hall Transcript)。但し日本語訳の発刊は今のところ期待できないように思います。


【本文】

イギリス南東部、大学町として有名なケンブリッジ市から約十六キロ離れたガルマンチェスターという小さな村のはずれに広々とした芝生に囲まれ、初期ハノーバー朝風の赤レンガで建てられた、外観は瀟洒ながらがっしりとした造りの大きな屋敷がある。屋敷の周囲を贅沢に囲む芝生の庭と花壇のさらに外側を深い木立が囲み、一方には小川が流れている。この屋敷は立てられた当初は個人の所有だったが、第一次世界大戦中にイギリス政府によって買収され、様々な役割を担った諜報部員を育成する場所として使用されてきた。「アラビアのロレンス」の名で知られるT・S・ロレンスが第一次世界大戦前後に滞在したことがあるかもしれない、豊かな緑に囲まれたこの屋敷において、一九四五年の初夏、これから到着する賓客たちを受け入れるための周到な準備、すなわち壁という壁をはがして盗聴器や送信機を取り付ける作業が進められた。屋敷の立地は敗戦によって痛手を受けた賓客たちの心を慰めるとともに、屋敷の外部からそれと知られずに邸内の賓客たちの様子を監視するのに申し分なかった。


一九四五年七月三日、ドイツ各地から連行され、一旦はフランスのパリ郊外に集められた十人のドイツ人科学者たちがこの屋敷に到着した。


現在では個人の所有となっている、「ファーム・ホール」と呼ばれるこの屋敷で最近になって発見されたドイツ語 の走り書きによると、邸内に軟禁された科学者たちの朝食には戦勝国のイギリスでも当時はなかなか手に入らなかったバナナが出され、「Oの誕生日にはシャンパンを抜いてみんなで馬鹿みたいに『ハッピー・バースデー・トゥー・ユー』を歌った。」というlxxxv[1]。


この「O」という人物は一体だれなのか、この屋敷に一九四五年の七月から十二月までの六ヶ月間抑留された十人、すなわちヴェルナー・ハイゼンベルク、マックス・フォン・ラウエ、オットー・ハーン、ウォルター・ゲルラハ、パウル・ハーテック、クルト・ディーブナー、カール・フリードリッヒ・フォン・ワイゼッカー、カール・ヴィルツ、 エーリッヒ・バッヘ、ホルスト・コーシング のうち、姓か名のいずれかがOで始まる人物は誕生日が三月のオットー・ハーンだけであり、この「頭文字O」なる人物が十人の科学者の抑留中に本当に誕生日を経験したのならばその素性は今もって謎である。しかし「頭文字O」なる人物が実際に誰だったのかはさほど重要ではないであろう。一方、オットー・ハーンに関しては、彼が核分裂を世界で最初に確認した化学者であるということ、その功績がドイツの敗色が濃かった一九四四年の秋にスエーデン王立科学アカデミーに認められ、ノーベル化学賞の授与が決定されたということ、そして連合軍とドイツ軍の戦闘や連合軍によるドイツの各都市の爆撃が目に見えて盛んになっていた時節、ストックホルムで行われる恒例のノーベル賞授与式に招待されることもなく、それどころか自分がノーベル賞を受賞したことさえ知らされなかったハーンがイギリスの片田舎にあるこの屋敷内で自分のノーベル化学賞の受賞を知ったという一連の意味深い事実がある。そのハーンが縄をかけて首を吊ろうとした天井の鈎(かぎ)から、今は豪華なシャンデリアが吊るされているlxxxvi[2]。


十人が到着した時も、邸内は美しく整えられ、一階の居間にはよく調律されたグランド・ピアノが置かれ、ハイゼンベルクはつれづれなるままに昔練習したベートーベンやモーツアルトの曲の見事な演奏を披露した。本棚には文学全集が並べられ、イギリス人担当官の一人であるリトナー少佐が当直の晩は、十人の科学者たちは美しいキングズ・イングリッシュによるディケンズの小説の朗読を楽しむことができた。屋敷の裏の庭園には見事なバラの花が咲き誇り、園芸に多少の心得があったゲルラハがバラ園の手入れをした。六十歳台になっても青年時代と同じ体型を保っているフォン・ラウエは毎日バラ園の周りを駆け足で巡って健康増進に励み、同年輩で太り気味のオットー・ハーンを時たま健康増進に誘ったが、パリ郊外の「はきだめ」にいた時にはしばしばフォン・ラウエと共に体操に励んだハーンも、ここでは他にすることが多くあったのでフォン・ラウエに付き合うことはなかった。十人の科学者たちが職業上の不満を感じずにすむよう、十人の滞在中には科学の専門誌が定期的に屋敷に届けられた。新聞も毎日届けられ、ラジオ放送も自由に聞くことができた。十人に供された食事は敗戦国ドイツの国民が日々手に入れていた食料のことは言うまでもなく、戦勝国であるイギリスの一般庶民が享受できるものよりもはるかに上質のものばかりだった。
ただ、邸内には人数分の寝室がなかったので、何人かの科学者は寝室を共有しなければならなかった。


ユダヤ人女性科学者マイトナーの逃亡を助け、「自分の発見が兵器製造に応用されたら自殺する。」と半ば公然と宣言していたオットー・ハーンはX線回析に関する業績でノーベル物理学賞を受賞したマックス・フォン・ラウエと寝室を共有した。ハイゼンベルクがそうだったようにフォン・ラウエはドイツとアメリカが交戦状態になる以前にアメリカのいくつかの大学の専任教授のポストに招聘されたが、フォン・ラウエがそれらを断り続けた理由は、ハイゼンベルクとは異なり、祖国ドイツに資するためではなかった。


「外国人を教授に採用する中立国の大学の数は限られているので、そのポストにはドイツの外で活躍することが本当に望ましい学者(つまりユダヤ人の学者)が採用されるべきだ。」とフォン・ラウエは語った。フォン・ラウエはアインシュタインがベルンの特許許可局の下級官吏だった頃から彼と深い親交を保ち、ユダヤ人一般に深く同情していたのであるが、ユダヤ人にただ同情するだけには留まらなかった。フォン・ラウエはナチス政府に抗議して一九四三年にベルリン大学の教授の職を辞職していた。したがって、フォン・ラウエにとって連合国による拘禁は全くいわれのないことだったのである。アルソス・ミッションの責任者であるゴードスミットがフォン・ラウエの抑留を決定した理由は、フォン・ラウエがナチスに協力したからではなく、フォン・ラウエが優れたドイツ人科学者であるとともに人格者であり、フォン・ラウエを加えることによってドイツ人科学者抑留の目的達成が容易になるに違いないとゴードスミットが考えたからだった。


ハイゼンベルクはフォン・ワイゼッカーと寝室を共有した。両者ともに戦争中は表向きには天文学の論文などを発表して原子力開発に対しては無関心であるかのように装っていたが、実際、ハイゼンベルクはカイザー・ウィルヘルム研究所の所長として極秘のうちに全力をあげて原子力開発に携わらねばならず、ドイツ貴族の末裔で政治家と高級官僚を排出した家系の出であるフォン・ワイゼッカーもハイゼンベルクと全く同じ立場にあった。


連合国が十人のドイツ人の科学者たちをなぜこの豪邸に幽閉して最高の客人としてもてなしているのか、十人が実際の理由を知らされることはなかった。十人の科学者たちは敗戦の混乱の中で家族がどうしているのかを非常に気にかけ、時たま検閲を受けた上で家族に手紙を出すことが許されたが、基本的には外界との個人的な接触を一切立たれ、家族からも近況の簡単な報告しか受け取ることがなかった。十人のうち独身者の二人を除く八人の妻子は生活には不自由していないということが確認された。ただディープナーの妻子が住む町がソビエトの管轄下になったという情報が入った時、ディープナーが涙を浮かべながらドイツ語 のわかる担当官に「妻子を英米仏いずれかが管轄する地域に移動させてくれ。」と嘆願し、担当官が「みなさんが私たちに一体何をしたのか考えてみてください。どうしてあなたに対してそんな親切をしてあげなければならないのですか。」と突っぱねる一幕があった。
(読書ルーム(130) に続く)

 

【お知らせ】

下の画像は作りかけの本作品電子版の表紙です。出版社はお任せ出版社のアマゾン(Amazon International Services)です。ということは今のところアマゾン専用の電子ブックリーダーのキンドルのみで講読が可能だということです。こちらはそれほど高額ではありませんが有料となります。キンドル版には次のような優れた点があります。

・ 縦書き表示であること

・ 文字の大きさを変えられ、また字体を変えたり太字にしたりできること

さらにキンドルは数百冊以上の書籍を入れることができ、重量は文庫本並みです。アマゾンはお任せ出版社なので内容や誤字脱字などには自分で責任を持たないといけませんが精一杯努力する所存です。

 

f:id:kawamari7:20220101133649j:image