【読書ルーム(149) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 1/9 (コンプトン)  】  作品の目次  このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

ラバイがテラーに対して取った態度はテラーにとって決定的な意味を持っていた。ポーランド生まれでニューヨークの下町で貧しユダヤ人職人の息子として育ち、「両親がアメリカに移住していなかったら私は今頃ポーランドの片田舎で仕立て屋をやっていたよ。」と、機会がある毎に気さくに語る物理学者ラバイは、テラーを始めとする多くのユダヤ人科学者たちがナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、アメリカの大学で新たに研究に取り組もうとしていた頃、多くのユダヤ人亡命科学者たちとアメリカ社会の掛け橋の役割を勤めた。そしてそのラバイは戦争が最も激しかった一九四四年にノーベル物理学賞を授与され、アメリカの物理学会において押しも押されもしない存在になっていた。


ラバイは政治目的での水素爆弾の開発は嫌いながらも、フェルミと同様で実証の必要性を理由として水素爆弾を開発の意義を説いていたので、テラーはラバイが自分の味方であるとばかり思い込んでいたのである。しかし、そのラバイによって大勢の科学者たちの目前で冷たいあしらいを受けたことは、テラーがアメリカの物理学会から暗黙のうちに追放されたという事実を意味していた。国家権力が科学の発展に深く関与するようになった時代において、学問の自由という高い理想を信奉する科学者たちにとって、科学者の良心を代表するオッペンハイマーの公職からの追放を決定的にしたテラーは、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダにも比せられ、権力者に追随する、許しがたい存在だったのであるcii[18]。


この年、コンプトンは二十八年ぶりに日本の地を踏んだ。羽田空港から東京都内のホテルに向かったコンプトンを報道カメラのフラッシュが待ち受けていた。
「なぜ日本に原子爆弾を落としたのですか?」と、コンプトンはアメリカやヨーロッパ、インドなどで繰り返し受けたのと同じ質問を日本人の報道関係者から受けた。長旅と時差のせいで疲れていたコンプトンは同様の質問を今までに受けた時と同じ答えを、ただ今まで以上の誠意を込めただけで繰り返した。
「日本に新兵器の威力を知らせて衝撃を与えれば、日本が名誉を失わずに恐ろしい戦争を止めるだろうと期待したのです。だから、原爆を投下すれば多くの犠牲者が出てしまいますが、それにもかかわらず、私達は日本とアメリカの両国の何百万人もの人間の命を救いたいと願ったのです。」


翌日、コンプトンは日本語ができる知人から日本の報道陣に対する前日のこの発言が日本のメディアで取り上げられなかったと聞かされた。コンプトンは、マンハッタン計画の責任者の地位にあった自分に対して日本人が謝罪を期待していたのだと思った。しかし、大東亜戦争と太平洋戦争を引き起こし、数多くのアメリカ人の命をも犠牲にした日本人全般に対して原爆投下に関して謝罪するつもりはコンプトンにはなかった。コンプトンは人間性のもっと深い共通した部分に訴えかけてみようと機会を待った。


日本への到着から一週間後にある都市で開かれた共同記者会見でコンプトンはその機会を掴むことがで
きた。一人の日本人記者がコンプトンに対して同じ質問をした時、コンプトンは全ての日本人を目前にしたつもりでこう問いかけた。
原子爆弾投下なしにあのような戦争を継続したほうが良かったのでしょうか?日本のみなさんはそのほうを望んでいたのでしょうか?」
記者会見場は一瞬、沈黙に包まれた。そして会見が元どおり進行を取り戻した時、同様の質問を繰り
返す記者はいなかった。記者会見が終わって一同が解散した時、原子爆弾投下に関する質問をした記者がコンプトンに歩み寄ってこう言った。
「あんな質問をしてすみませんでした。」
日本の降伏直後にマニラから日本に赴いたコンプトンの兄、カール・コンプトンは仕事で接することのできた英語が堪能な日本人に終わったばかりの戦争に関する各種の質問をし、その内容をある評論誌に寄稿し、それを読んだ弟のアーサー・コンプトンは、原子爆弾投下が必要だったことは日本人自身が知っていると感じたのであるが、日本を訪れたアーサー・コンプトンはそれを更に確信した。コンプトンの兄であるカール・コンプトンはある日本人と話した以下のような内容を伝えた。


「『原子爆弾が投下されず、日本が戦争を継続していたとしたら、次はどうなっていなのでしゅか?』と私が尋ねると元軍人だったその日本人はこう答えた。『アメリカ軍は九州に上陸すると思われたので九州の海岸を防備するように兵力を移動していたでしょう。』そこで私はさらに尋ねた。『アメリカ軍の上陸を差し止めることはできたと思いますか?』この問いに対して彼はこう答えた。『私たちは必死で抵抗したでしょう。でも、アメリカ軍の進行を留めることはできなかったと思います。私たちは、最後の日本人が死ぬまで戦ったでしょう。そうすることによって敗北、そして降伏という恥辱を避けたと思います。』ciii[19]civ[20]」


原子爆弾投下によって多数の死傷者が出ることを知りつつも、科学者小委員会においてコンプトンは原子爆弾投下の決定を強く押したのであるが、コンプトンは非戦を絶対的な信条とするメノー派新教の教えに自分がそむいたわけではないと確信していた。メノー派新教徒としてコンプトンはどうあっても戦争を終わらせなくてはならなかった。ただ、全面戦争の只中において平和主義を貫徹することは多大な犠牲を伴うのである。


第二次世界大戦が終わってから一九五十年代の半ばにかけて、コンプトンは世界中を周遊し、各地の
科学者と知己を深め、物理学の知識を広め、非戦を説いたが、一九五十年代の後半から次第に活動を縮小し、一九六二年に七十歳で亡くなった。

(読書ルーム(150) 「フェルミ」 に続く)

 

【参考】

アーサー・コンプトン (ウィキペディア)

エドワード・テラー (ウィキペディア)

イシドール・ラバイ (ウィキペディアの見出し「ラービ」はフランス語の発音でここでは綴りが同じユダヤ教の聖職者の英語の発音を採用しました。)

 

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