【読書ルーム(28) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【 『プロメテウス』第1章  プロメテウスの揺籃の地 22/27. 〜 ハイゼンベルクの青年時代〜 同年代との切磋琢磨と日本行き】  作品の目次

この記事の内容全ての著作権はかわまりに帰属します。  

 

【本文】

新理論の構築に頭を悩ませたハイゼンベルクは冬の夕暮れ時、厳冬のコペンハーゲンの街を、最初にボーアと二人で夏のゲッチンゲンの街並みを歩きながら語り合った時のように歩き回った。そして街のはずれに沈んでいこうとする夕陽を見つめた時、ある考えがハイゼンベルクにひらめいた。

 

原子核の周りを惑星が太陽の回りを巡るように巡っている電子は原子核と比較しても問題にならないほど小さな質量しかない。電子はそれこそ、光を当てられただけで飛跡を変えられてしまうほど軽いのだ。しかし、われわれは全てのものを認識するために光やX線を照射しなければならない。[9]」

 

ハイゼンベルクはこのひらめきに熟考を巡らせた。そしてある重要な結論に逢着した。「わたしたち観察者は原子の構成要素が存在する位置と運動速度の両方を同時に知ることはできないのだ。」

 

ハイゼンベルクはこの考え方を単なる思い付きに終わらせるのではなく、既存の量子力学の理論と矛盾なく、あるいはそれらの理論の間隙を説明するようなものにしたかった。二十五歳のハイゼンベルクはすでに人生の秋のような収穫時に到達していた。そして苦心の末、翌一九二七年三月二十三日に「不確定性理論」と銘打った論文をドイツの学術誌に発表したのである。

 

ハイゼンベルクの論文を読んだボーアは直ちにハイゼンベルクの考え方が量子の運動の本質を測定という行為によって制限していると批判した[10]。ゲッチンゲンでは先にハイゼンベルク量子力学の論文を発表した時と同様、マックス・ボルンは数学に秀でた片腕パスカル・ヨルダンと共にハイゼンベルクの理論を精緻化しようと試みた。そして一方の師ボーアは機会がある毎にハイゼンベルクと激論を戦わせたが、ボーアは終にその年の秋、イタリアのコモ湖畔で行われた、ボルタ電池の発明で名を知られる十九世紀イタリアの物理学者ボルタの死後百年を記念する学会で「波動の概念を用いることがすなわち不確定性を生じさせる。」という内容の、ハイゼンベルクの理論を実質的に支持する講演を行ったのである[11]。

 

ハイゼンベルクはこの年初めて、ベルギーのブリュッセルで三年に一度開かれるソルヴェイ国際学会に招かれ、またライプチッヒ大学の正教授の座に就いて、ミュンヘン、ゲッチンゲン、コペンハーゲンの間をさまよった遍歴時代に終止符を打った。ハイゼンベルクはもはや一人前の物理学者で大学教授、そして画期的な理論の提唱者としてその名を遍く知られるようになっていた。

 

一九二九年までにはコペンハーゲンでボーアの教えを受けたディラックゲッチンゲン大学のボルン教授の門下のヨルダンそして両者を共に師と仰ぐハイゼンベルクらがそれぞれ、あるいは協力しながら打ち立てた原子核モデル、波動力学量子力学の変換理論、不確定性理論、相補性などが矛盾無く一つの体系として構築され、いわゆるコペンハーゲン学派という強力な理論物理学者のグループが形成された。そして一九二九年の秋、正教授の地位について二年目のハイゼンベルクは念願がかない、ボーアやディラックを含むコペンハーゲン学派の面々とアジアへ旅行することになった。最終目的地は日本だった。

(読書ルーム(29) に続く)

 

【お知らせ】

下の画像は作りかけの本作品電子版の表紙です。出版社はお任せ出版社のアマゾン(Amazon International Services)です。ということは今のところアマゾン専用の電子ブックリーダーのキンドルのみで講読が可能だということです。こちらはそれほど高額ではありませんが有料となります。キンドル版には次のような優れた点があります。

・ 縦書き表示であること

・ 文字の大きさを変えられ、また字体を変えたり太字にしたりできること

さらにキンドルは数百冊以上の書籍を入れることができ、重量は文庫本並みです。アマゾンはお任せ出版社なので内容や誤字脱字などには自分で責任を持たないといけませんが精一杯努力する所存です。(予想価格:700円 要キンドル)

 

f:id:kawamari7:20211231174701j:image