プロメテウス達よ (付記5)

第五章「マンハッタン計画(下)」で活躍するプロメテウス達/第五章の参考文献   作品の目次  第五章_トップ

 

オッペンハイマーコンプトンフェルミローレンスはドイツの降伏の二日後に召集されて完成間近の原子爆弾の使用法に関して科学者としての意見を聴取された。戦争終結のために積極的に原子爆弾を用いるべきだとするコンプトンと限定しようを主張するローレンスとが激論を戦わせた。


シカゴ大学原子力開発の基礎研究に取り組んでいたレオ・シラードはドイツの降伏によって原子爆弾は必要なくなったと考え、

ジェームズ・フランクと共に核兵器のあり方を考えて政治家に意見を提出しようとする。英語での作文に堪能だった生物学者のラヴィノヴィッチらがこの内容をまとめたいわゆるフランク・レポートにはシラードフランクだけではなくプルトニウムの生成に成功したグレン・シーボーグなど若手の良識ある科学者が署名したがコンプトンは目を通しただけで署名はしなかった。


週末に当たった六月十六日、オッペンハイマーコンプトンフェルミローレンスの四人から成る科学者小委員会はロス・アラモスで原爆の使用法だけを議題とする二回目の会合を開いた。この席上、今まで寡黙だったフェルミ原子爆弾の使用に激しく反対し、小委員会は意見の一致を見ることなく原子爆弾の使用についての決定を上層の政治家に委ねた。


オットー・フリッシュは同僚のパイレーズらと共にイギリスで原子力開発に必要な理論の精緻化を図り、特に核分裂の連鎖反応惹起に必要なウラニウム237の量を大幅に下方修正した。


ルイス・アルヴァレスカリフォルニア州立大学バークレー校でアーネスト・ローレンスに指示した科学者でマンハッタン計画に出向したことから広島と小倉(当日、天候を理由に長崎に変更)に原子爆弾を搭載した飛行機に従う飛行に科学者の代表として搭乗した。長崎への原爆投下の際、アルヴァレスは共にローレンスに師事した日本人科学者リョーキチ・サガネに宛てた無条件降伏を日本政府に対して手紙をパラシュートにつけて投下し、日本の降伏後にこの手紙はサガネの元に届けられた。


ニールス・ボーアの教え子で東京大学教授の仁科芳雄はGHQが上陸する以前に広島と長崎に投下された新型爆弾が原子爆弾であることを特定しただけではなく、その威力に関しても詳細なデータをまとめあげた。なお、仁科が研究に用いていたサイクロトロンはGHQに所属する専門外の軍人によって核兵器製造とは無関係であるのにもかかわらず破壊された。

 

 

参考文献

lxiv[13] 実際には起草者は不明で筆頭証明者のジェームズ・フランクが全責任を負っているが、内容や文体から草稿を用意したのはシラードだと推測される。
lxv[14] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns”の巻末に参考として掲載された全文より。
lxvi[15] フランク・レポートは非常に長いので要約が必要であり、Alter Smith Schoenberger “Decision of Destiny”に引用された部分だけを引用
した。
lxvii[16] A.H.Compton “Atomic Quest” 
lxviii[17] A.H.Compton “Atomic Quest” 
lxix[18] 残されている本人の写真を見て筆者が感じた内容である。
lxx[19] Cregg Herken “Brotherhood of the Bomb” 
lxxi[20] A.H.Compton “Atomic Quest”(1956 年刊行)にはこの記述はなく、ローレンスが最も頑強に日本への原子爆弾使用に反対したことになっている。Emilio Segrè “Enrico Fermi”によれば、フェルミが頑強に反対したことはフェルミの死後まで秘匿されていたという。
lxxii[21] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
lxxiii[22] 約一ヶ月後、エドワード・テラーがシラードの嘆願書をオークリッジで回覧しようとした時にオッペンハイマーがテラーに対して語った言葉。七月半ばにはオッペンハイマーのこの姿勢は固まっていたが、六月半ばにおけるオッペンハイマーの考え方は下に引用したオッペンハイマーがまとめて軍事省長官宛てに出された委員会の報告書の但し書きと筆者の想像に基づいている。
lxxiv[23] 直接の引用は Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb”より。
lxxv[24] “”ただし直接の引用は John Cornwell “Hitler’s Scientist”から。
lxxvi[25] マックス・フォン・ラウエ(1914 年、物理学賞)とヴェルナー・ハイゼンベルク(1932 年、物理学賞)の他、スエーデン王立アカデミーは 1944 年にオットー・ハーンの化学賞を受賞を決定していたので実際はノーベル賞受賞者は三人だったが、ハーンの受賞はこの年の暮れまで公表されなかった。
lxxvii[26] Peter Goodchild “Oppenheimer,Shatter of Worlds” 
lxxviii[27] Robert Jungk "Brighter than a Thousand Suns"
lxxix[28] アラモゴルドでの爆破実験に関しては Rachel Fermi (ed.) “Picturing The “Bomb”、 Peter Goodchild “Oppenheimer,Shatter of Worlds”、 Robert Jungk "Brighter than a Thousand Suns"を参考にした。
lxxx[29] Cregg Herken “Brotherhood of the Bomb” ただし表現は若干変えてある。
lxxxi[30] A.H.Compton “Atomic Quest”。チャーチルの「第二次世界大戦戦史」にトルーマン大統領の言葉を聞いて安堵したチャーチルの率直な感
慨が書かれている。
lxxxii[31] Alter Smith Schoenberger “Decision of Destiny”、 Bernard J.O’Keefe “Nuclear Hostages”、 Manhattan Engineer
District “A-bomb of Hiroshima and Nagasaki”など。
lxxxiii[32] A.H.Compton “Atomic Quest” 
lxxxiv[33] Manhattan Engineer District “A-bomb of Hiroshima and Nagasaki”、 John Hersey “Hiroshima”など