プロメテウス達よ (付記3)

第三章「プロメテウスの目覚め」で活躍するプロメテウス達/第三章の参考文献 作品の目次  第三章_トップ

 

ニールス・ボーア原子核の中に封じられているエネルギーを解放することができるとオットー・フリッシュ経由でリーゼ・マイトナーから告げられ、それを確信した最初のノーベル賞級物理学者である。彼はこの事実を重大に受け止め、学問の自由を求めてイタリアからアメリカに渡ったばかりのエンリコ・フェルミと衝突する。ボーアの祖国デンマークナチス・ドイツの占領下に入った後もユダヤ人を母とするボーアはドイツのデンマークでのユダヤ人政策がいまだそれほど厳しくなく、また研究所の行く末を見定めたいという理由でコペンハーゲンに残った。

 

アメリカ、ニューヨークのコロンビア大学で正教授の地位に就いたエンリコ・フェルミオットー・ハーンリーゼ・マイトナーの研究成果を新しいエネルギーを得るための大きな躍のきっかけと捕らえラジオ番組に出演して内容を一般人に公開するがニールス・ボーアはこれを聞いて激怒した。


イシドール・ラバイエドワード・テラーレオ・シラードと同じくオットー・ハーンリーゼ・マイトナーの研究成果を公表すべきではないと考えたがレオ・シラードはさらにニールス・ボーアアメリカに滞在している間に原子力開発の機密保持についての合意を確立しようとした。ただ、核分裂の連鎖反応にはウラニウム全体の1%を占めるウラニウム235が相当量必要だという結論からボーアフェルミと同じく特に差し迫った秘密保持は必要ではないという結論に達した。シラードと同じく事実の拡散を憂慮した科学者の仲にはハンガリー出身のユージン・ウィグナーデンマーク出身のヴィクトル・ワイスコプフがいた。


アルバート・アインシュタインプリンストン大学で研究を続けていたがレオ・シラードらのユダヤ人物理学者らの要請でアメリカ大統領ルーズベルトに宛てた原子力開発の補助を要請する書簡に署名する。


ユージン・ウィグナーの妹婿で1933年にシュレジンガーと共に量子力学の発展に対する功績によってノーベル賞を授与され、また寡黙な変人で知られるポール・ディラックウィグナーシラードらによるによる秘密保持の要請を快く承諾した。 


イレーヌ・キューリーフレデリックジョリオオットー・ハーンリーゼ・マイトナーの研究成果を受け、重水を緩衝物質に、シラードらの忠告を無視してその結果をネーチャー誌に発表した。しかし、ナチス・ドイツのフランス侵攻に対応して重水を南フランスのマルセイユに移送、その後ナチス・ドイツのパリ入城の前後に部下に研究データの焼却を命じるなどの辛酸をなめる。

 

1939年の夏、第二次世界大戦勃発の直前、ヴェルナー・ハイゼンベルグは師のニールス・ボーアと入れ替わりに渡米するが、その目的はナチス・ドイツから逃れたユダヤ系科学者らが政権が交代した後にドイツに戻る意思があるかどうかを問うことだった。オットー・ハーンリーゼ・マイトナーの成果に関わるアメリカ人科学者たちとの間にはアメリカとドイツの将来の予測に関して溝が生じた。コロンビア大学ハイゼンベルクを教授として採用すると申し出るがハイゼンベルク聞く耳を持たず、オランダ人所長のペーター・デバイが亡命した後の国立カイザー・ウィルヘルム研究所の所長に就任した。

 

ロハート・オッペンハイマーがサンフランシスコで開いたハイゼンベルグとの懇談会でも核分裂の話題は意識的に避けられた。シカゴ大学アーサー・コンプトンは民主主義と自由を巡ってハイゼンベルクと真っ向から対立した。アーサー・コンプトンはこの後、原子力開発に関わる研究成果を整理する役割に任じられる。


アーネスト・ローレンスサイクロトロン開発がスエーデン王立アカデミーに認められ、一九三九年にノーベル物理学賞の授与が決定した。しかし第二次世界大戦勃発のためローレンスは授賞式の出席を見合わせた。


若い化学者のグレン・シーボーグアーネスト・ローレンスの指導の下でサイクロトロンの操作に習熟した。シーボーグの目標はサイクロトロンによる粒子照射によって生じた元素を同位体を含めて正確に特定することだったが、この過程でシーボーグは同僚のマクミランワール、ケネディーらと共に非常に安定した(半減期が長い)元素のプルトニウムを人口的に生成した。エミリオ・セグレがこの新元素が核分裂を引き起こすことを確認した。

 

イギリス人物理学者のオリファント原子力開発の加速を要請するためにアメリカを訪れ、第一線で活躍しているがいまだ敵国籍のエンリコ・フェルミに知らせることなく、西海岸で教鞭を取るアーネスト・ローレンスと詳細を打ち合わせた。アーネスト・ローレンスはさらに、オリファントが要請した内容をシカゴ大学の創立記念に東海岸から出席したハーバード大学学長で物理学者のコナントシカゴ大学宇宙線の研究をしていたアーサー・コンプトンに話し、助言を求めた。

 

オランダ人のペーター・デバイは化学者でベルリンのドイツ国立カイザー・ウィルヘルム研究所の所長を務めたがナチス・ドイツドイツ国籍の取得を強要されたことを理由に一九三九年にアメリカに亡命し、ドイツ国立カイザー・ウィルヘルム研究所の内部事情などをこと細かにシラードらに報告した。


経済学者でルーズベルト大統領に政策策定で協力する機会があったアレキサンダー・サックスアインシュタインが署名したルーズベルト大統領宛の手紙を預かったがヨーロッパでの戦争勃発を受けて即時に大統領に手紙を手渡すことを控え、大統領に効果的に手紙を渡す時期と方法を窺った。彼が大統領に手紙を渡したのは戦争勃発後訳一ヶ月立ってからである。一九四十年にナチス・ドイツが植民地にウラニウム鉱を擁するベルギーを占領するとサックスは大統領にさらに原子力委開発の加速を要請し、その結果カーネギー研究所所長のヴァネヴァー・ブッシュをトップとする国防研究委員会が設立された。


ベルギーの実業家であるサンギエウラニウムが新たなエネルギー源となるかもしれないという噂に接し、物理の知識が全くないままにその理由を知ろうとするが、それすらもおぼつかないまま、ベルギー領コンゴで採掘されるウランを含むピッチブレンドナチス・ドイツに摂取される前に出来る限り多くを連合国側に引き渡そうという一大投機を決意した。彼は私材を投じてピッチブレンドアメリカ、ニ
ューヨーク市のスタッテン島にピストン輸送する。


一九四一年の十月にハイゼンベルクはすでにナチス・ドイツの占領下にあったデンマークの首都を訪れ、恩師のニールス・ボーアの私邸も訪れて面会した。この経緯はトニー賞受賞作品の戯曲および映画/舞台劇の「コペンハーゲン」で二人の科学者の心理劇として見事に描かれているが、ハイゼンベルクは講演の依頼に応じてコペンハーゲンに赴いたので、「コペンハーゲン」で強調されているハイゼンベルクコペンハーゲン訪問の理由ではなく、ハイゼンベルクとボーアとの間の会話の内容とボーアが取ったその後の行動に及ぼした会話の影響が大きな謎である。

 

(ハイゼンベルク)

 

(ボーア)

【映画ルーム(特番) コペンハーゲン原子力開発について知っておくべきこと 10点】

https://kawamari7.hatenablog.com/entry/2019/08/16/112350

 

 

参考文献

xxvii[1] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
xxviii[2] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xxix[3] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xxx[4] Thomas Powers “Heisenberg’s War

xxxi[5] Thomas Powers “Heisenberg’s War”と A.H.Compton “Atomic Quest”による。
xxxii[6] Thomas Powers “Heisenberg’s War”ただし、表現は少々変えてある。
xxxiii[7] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xxxiv[8] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns” 
xxxv[9] 戦略工作局 (Office of Strategic Services)、後の米国中央情報局(CIA)の前身。
xxxvi[10] Bernard J.O’Keefe “Nuclear Hostages” 
xxxvii[11] A.H.Compton “Atomic Quest” 
xxxviii[12] A.H.Compton “Atomic Quest” 
xxxix[13] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xl[14] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
xli[15] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns”に引用されているハイゼンベルクの回想より。Robert Jungk は同書の執筆に当たってハイゼンベルクに会見の模様を尋ね、ハイゼンベルクが「会話の隅々に至るまで記憶しているわけではないが・・・。」という但し書きつきでこれに応じたもの