第二章「新時代の錬金術師たち」で活躍するプロメテウス達/第二章の参考文献 作品の目次 第二章_トップ
ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラードはナチスに席巻されたドイツを見限り、ベルリンからオーストリアに、さらにはラザフォードを頼ってイギリスに移住する。
ジェームズ・フランクはナチス・ドイツを公然と糾弾し、ナチス政府に抗議するために大学教授の職を辞す。ゲッチンゲン大学教授で平和主義者のマックス・ボルン(英語 = ボーン)もイギリスを目指した。
マックス・フォン・ラウエやヴェルナー・ハイゼンベルクらの純粋ドイツ人(アーリア人)科学者はユダヤ人科学者が教職を追われた後の大学で授業や研究課題の補填に負われた。また、量子力学を創設したマックス・プランクもヒトラーに面談してユダヤ人科学者を大学に留めるようを要請したが聞き入れられなかった。
一方でゲッチンゲン時代からハイゼンベルクの親友だったヴォルブガング・パウリはドイツ国内で教職を負われたユダヤ人科学者を積極的に支援しようと彼らの経歴を調べ上げてイギリスやアメリカでの就職を助けるボランティア活動に携わった。
アインシュタインとその妻(後妻)は一九三十年代初めから講演やシオニズム運動の活動で定まった住所をもたなかったがナチス政権成立後、官憲がアインシュタインの別荘を探索し、凶器(実際には台所用具)を押収するなどしたため、ベルギー王室の好意を頼ってドイツを去り、一九三三年にアメリカに渡る。
リーゼ・マイトナーは祖国オーストリアがナチス・ドイツに併合された後もベルリンで同僚らの協力を得て研究を続けるが、ついにオットー・ハーンの忠告に従って危険を冒してドイツを去ってオランダで一年間限定の教職に就いたがその後、スエーデンのストックホルムに定住した。オットー・ハーンが核分裂の根拠となる決定的な分析結果を得たのはマイトナーがストックホルムに移った直後のクリスマス休暇の直前だった。
デンマークの首都コペンハーゲンに居住していたニールス・ボーアはこの時期比較的安穏な生活を送り、自らが設立した国際研究所の拡充を図り、寄付を募るための旅行などにもしばしば出かけていたようである。「核分裂(fission)」の名称はオットー・ハーンによる実験解析結果およびリーゼ・マイトナーによる分析結果をマイトナーの甥であるオットー・フリッシュから報告された時にコペンハーゲのボーアの研究所を訪れていたアメリカ人生物学者のアーノルドによる。
イレーヌ・ジョリオ=キューリーとフレデリック・ジョリオ=キューリーはベリリウムにアルファ線を照射すると全く別の放射線を発することをつきとめた。ジェームズ・チャドウィックはこの現象を解析して原子核の構造の中に比較的質量の大きな中性子が存在することを突き止めた。中性子の発見は一九三二年、これによるノーベル物理学賞の受賞は一九三五年である。
エンリコ・フェルミは量子の運動を把握するために編み出した統計理論を編み出したが発表の数週間後にイギリスのポール・ディラックがそれとは知らずに全く同じ統計理論を別の学術誌に発表した。フェルミはまた革新的な論文によって二十八歳の若さでローマ大学の正教授の地位に就く。チャドウィックによる中性子の発見の直後から原子量の高い元素に中性子を照射することによる有意な結果(元素の変換)を予測し、イタリアでは「閣下(エクセレンツァ)」と呼ばれる身分だったにもかかわらず、連日作業衣に身を包んで実験にいそしんだ。一九三八年フェルミがサミュエル・ゴードスミット(オランダ語 = ハウシュミット)のの誘いで夏休み中にアメリカの大学で夏期講座の講師を務めている間にイタリア政府が対ユダヤ人政策を強化し、同時期にアメリカに滞在していたユダヤ人の教え子でパレルモ大学教授のエミリオ・セグレは大学を追放され、帰国の術を失う。ユダヤ人女性を妻とするフェルミも
アメリカへの移住を思案するようになりいくつかのアメリカの大学を打診し始めるが、奇しくもニューヨークのコロンビア大学から教授内定の通知を受け取って一家を挙げての移住の手続きを開始した直後にノーベル物理学賞を受賞が決定し、フェルミはこの機会も利用して限られた同僚だけに真意を告げてイタリアを去った。
エンリコ・フェルミの教え子でユダヤ人のエミリオ・セグレがアメリカに滞在している間に故国イタリアで厳しいユダヤ人対策が施行され、パレルモ大学の教員の地位を失ったセグレは着の身気のままでアメリカに滞在することを余儀なくされた。アーネスト・ローレンスは彼に大学助手の職を世話するがこのポストは非常な低賃金だったという。
イタリア人のエンリコ・フェルミとイギリス人のポール・ディラックがほぼ同時に原始物理学に欠かせない同じ統計手法を考案したことによって両者へのノーベル物理学賞の共同授与が取りざたされたが、これが実現しなかったのはポール・ディラックとエルヴィン・シュレジンガーが別の業績(原子理論の新しい解釈)によって一九三年にノーベル物理学賞を共同受賞したからである。
アメリカ、ニューヨークのコロンビア大学で化学を教えていたハロルド・ユーリーは重水を発見し、この功績によって一九三四年にノーベル化学賞を受賞した。重水は原子力開発に係る実験物理学に大きな進歩をもたらした。
アーサー・コンプトンはこの頃は宇宙線を研究テーマにしていてこの時点では未だ原子力開発には関わっていなかった。
アーネスト・ローレンスは一九二九年頃からイギリスのラザフォードがアルファ線を照射して比較的軽量の元素を他元素に転換することに成功したことを知っていたが、カリフォルニア州立大学バークレー校の教授になった頃からコーヒー缶など円筒の中心に磁石を配置することによって粒子を加速し、重量のある原子により効果的に照射するサイクロトロンに自信を得ていた。この功績によってローレンスは一九三三年に開催された物理学者の国際会合(ソルヴェイ会議 写真)にアメリカ人としてただ一人招聘された。ローレンスはさらに医学を学んだ弟とともにサイクロトロンの原子物理学以外での応用可能性を探った。
ヨーロッパ各地で研究を積んだロバート・オッペンハイマーはカリフォルニア州立大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の教授を兼任することになりアーネスト・ローレンスと専門を超えて文学・美術・音楽なども語る友人となる。ヨーロッパでオッペンハイマーは後のマンハッタン計画で部下であり友人ともなるポール・ディラックとイシドール・ラバイと知り合うが、この二人はオッペンハイマーの芸術志向を理解することはなかった。
イギリスにおける原子力開発の始祖と看做されるラザフォードは一九三七年十月に些細な事故が原因で死去した。
グレン・シーボーグとエドウィン・マクミランは人造元素を生成する真の錬金術師を目指してアーネスト・ローレンスの元で修行を積んでいた。
リーゼ・マイトナーの甥でニールス・ボーアが所長を務める研究所の物理学の研究員でもあったオットー・フリッシュは伯母がオットー・ハーンから実験結果を受け取った際に休暇で伯母の元に滞在していた。二人はクリスマス休暇を返上してハーンの実験結果を解析し、アインシュタインが予言したとおりに核分裂から多大なエネルギーが得られるという結論に達した。
参考文献
xvii[1] Wikipedia など。
xviii[2] Pierre de Latil “Enrico Fermi”
xix[3] Commencement Address(1938)
xx[4] ユダヤ教の聖典。
xxi[5] Kay Bird, Martin Sherwin “American Prometheus, The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer”
xxii[6] John Cornwell “Hitler’s Scientist”
xxiii[7] フェルミの妻の“Atoms in the Family” によれば、フェルミのノーベル賞受賞はイタリアの新聞でわずか二行の記事として伝えられ、フェルミが賞を受け取る際にスエーデン国王に対してファシスト風敬礼をしなかったことが別途、非難されたという。ノーベル賞委員会はこの年に先立ち、ドイツで獄中にあった政治犯にノーベル平和賞を授与しており、そのせいでドイツとイタリアの両国政府はノーベル賞自体に冷ややかな態度をとっていたという。しかし、これはあくまでもイタリア政府に反感をもっていたフェルミの妻が伝え聞いたことである。
xxiv[8] フェルミのノーベル賞受賞前後の記述は全て Laura Fermi “Atoms in the Family” 。
xxv[9] A.H.Compton “Atomic Quest”
xxvi[10] Life Sicence Library “Matter” (邦訳「物質」)