【読書ルーム(151) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 3/9 (アインシュタイン)】  作品の目次 このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

一方、相対性理論によって原子力開発に理論的根拠を与え、晩年に傷心のオッペンハイマーを後継者として得たアインシュタインフェルミが亡くなってから数箇月後の翌年一九五五年の始めに七十六歳で亡くなった。


アインシュタイン相対性理論は、ルネッサンス期イタリアの学者トスカネリが唱えた地球球体説が、大西洋を西に航海することによって中国に達しようとしたコロンブスに行動の根拠を与えたのと同様に、ハーン、マイトナー、そしてフェルミらに原子力開発の根拠を与えたが、原子爆弾が実際に開発され、日本に投下されて多数の犠牲者を出したことをアインシュタインは死ぬまで嘆きつづけた。
アインシュタイン第二次世界大戦の前と後に二度、日本を訪れ、アインシュタインの業績と人柄を称える日本の人々にじかに接したが、生前、一九三九年の夏に原子力開発を促す手紙をルーズベルト大統領宛ての書いたことについて質問されると「ナチス・ドイツ原子爆弾を開発しているということを知らなかったならば、あるいは原子爆弾が日本に落とされるとわかっていたならば、あの手紙には決して署名しなかった。」と語った。大統領宛ての手紙の全てを企画したレオ・シラードやシラードと伴にシカゴ大学マンハッタン計画の基礎研究に従事したジェームズ・フランクらが日本への原爆投下に反対したことだけがアインシュタインにとっての救いだった。アインシュタインは終に一般力学と電磁力学を統一する場の理論を確立することはできなかった。しかし死の直前、日本の湯川秀樹やイギリス人哲学者でノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセルなど、世界的に名高い各界の知識人十一人に核兵器の廃絶と世界政府の構想を託し、その遺志はパグウォッシュ国際会議という世界政府樹立と平和を構想するための知識人の国際会議という形で実現されている。

(読書ルーム(152) 「ローレンス」 に続く)

 

【参考】

アルバート・アインシュタイン (ウィキペディア)

湯川秀樹 (ウィキペディア)

ジェイムズ・フランク (ウィキペディア)

バートランド・ラッセル (ウィキペディア)

 

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【読書ルーム(150) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 2/9 (フェルミ)】  作品の目次 このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

オッペンハイマーの進退が取りざたされた一九五三年の始め、シカゴ大学で学生指導に熱を入れていたフェルミは、原子力開発における功労者を賛えるためにアメリカ政府が創設した、名称はこれをおいて他にはなく、初めての受賞者はフェルミをおいて他にはありえない、エンリコ・フェルミ功労賞を受賞した。しかし、翌年の夏、戦争が終わってから二度目にイタリアに帰国し、講演を行ったり少年時代と若い研究者時代を過ごしたローマやエルバ島で遊んだ頃からフェルミは疲れやすく食欲もなくなり、アメリカへの帰国後まもなく自宅を離れての学会の出席に耐えられず、終に学会の途中でシカゴに帰還した。フェルミは他の多くの科学者たちと同じかそれ以上に、オッペンハイマーの公職からの追放の件でひどく心を痛め、科学者の良心と本来自由であるべき学問への国家権力の介入に対して憤っていたので、事が収まれば以前と同じ体力や精神力を回復できると単純に考えていたのである。しかし妻の薦めで健康診断を受けた結果、フェルミ胃がんに侵されているということがわかった。すでに末期で、医者には手のほどこしようがなかった。


晩秋になり、シカゴの病院で流動食と点滴によって生き長らえながら、フェルミの頭から片時も離れることがなかったのは、後に残さなければならない二人の子供や科学関連の啓蒙書の執筆で身を立てつつある聡明な妻のローラの行く末ではなかった。フェルミは自分と同じくファシズムを嫌い、アメリカを第二の祖国として選んだ同胞エドワード・テラーの、オッペンハイマーの公職からの追放を決定的にして学会から暗黙の追放を受けてしまった後の行く末を想った。フェルミがテラーに会うことを強く希望したので、カリフォルニアに住んでいたテラーはシカゴに赴いたが、病院に到着した時にはフェルミは極度に衰弱し、一日に面会することのできる人数と一回当たりの時間を厳格に守らなければならなかった。しかし、それでもフェルミはあるだけの力をふり絞り、イタリア人気質(か た ぎ)の明るさを揮って旧友テラーに接しようとした。フェルミはテラーの告白に耳を傾け、テラーとオッペンハイマーとの間に起きたことの全てを許容し、核兵器開発や物理学会学会の上にこれから起きることの全てを絶対者に託すことでテラーの魂を救おうとした。テラーはオッペンハイマーを尊敬する全ての科学者たちから黙殺されてはいたが、死と向かい合っているフェルミは大多数の科学者たちの平和を望む心情と全体主義に対するテラーの憎悪の両者をともに受け入れることができた。そしてテラーが去ってまた独りきりになると、フェルミは自分の腕につたう点滴が落ちる様を見つめながら物質界の神秘に挑んだ自らの来し方と第二の火である原子力を手中に収めた人類の行く末に想いを馳せた。やがて死期を悟ると、フェルミは病室にカトリックの司祭とプロテスタントの牧師とユダヤ教のラバイ(教師)を次々と呼んで自分の「罪」を告白し、魂の救済を乞うた。人類に原子の火をもたらした巨人フェルミはこうして一九五四年十一月二十九日に五十三歳で燃え尽きた。

(読書ルーム(151) 「アインシュタイン」に続く)

 

【参考】

エンリコ・フェルミ (ウィキペディア)

エンリコ・フェルミ賞(アメリカ)   (ウィキペディア)

 

エドワード・テラー (ウィキペディア)

 

【映画ルーム(160) 博士の異常な愛情 〜 古色蒼然の恐怖戯画… 6点】

 

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【読書ルーム(149) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 功労者たちのその後 1/9 (コンプトン)  】  作品の目次  このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

ラバイがテラーに対して取った態度はテラーにとって決定的な意味を持っていた。ポーランド生まれでニューヨークの下町で貧しユダヤ人職人の息子として育ち、「両親がアメリカに移住していなかったら私は今頃ポーランドの片田舎で仕立て屋をやっていたよ。」と、機会がある毎に気さくに語る物理学者ラバイは、テラーを始めとする多くのユダヤ人科学者たちがナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、アメリカの大学で新たに研究に取り組もうとしていた頃、多くのユダヤ人亡命科学者たちとアメリカ社会の掛け橋の役割を勤めた。そしてそのラバイは戦争が最も激しかった一九四四年にノーベル物理学賞を授与され、アメリカの物理学会において押しも押されもしない存在になっていた。


ラバイは政治目的での水素爆弾の開発は嫌いながらも、フェルミと同様で実証の必要性を理由として水素爆弾を開発の意義を説いていたので、テラーはラバイが自分の味方であるとばかり思い込んでいたのである。しかし、そのラバイによって大勢の科学者たちの目前で冷たいあしらいを受けたことは、テラーがアメリカの物理学会から暗黙のうちに追放されたという事実を意味していた。国家権力が科学の発展に深く関与するようになった時代において、学問の自由という高い理想を信奉する科学者たちにとって、科学者の良心を代表するオッペンハイマーの公職からの追放を決定的にしたテラーは、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダにも比せられ、権力者に追随する、許しがたい存在だったのであるcii[18]。


この年、コンプトンは二十八年ぶりに日本の地を踏んだ。羽田空港から東京都内のホテルに向かったコンプトンを報道カメラのフラッシュが待ち受けていた。
「なぜ日本に原子爆弾を落としたのですか?」と、コンプトンはアメリカやヨーロッパ、インドなどで繰り返し受けたのと同じ質問を日本人の報道関係者から受けた。長旅と時差のせいで疲れていたコンプトンは同様の質問を今までに受けた時と同じ答えを、ただ今まで以上の誠意を込めただけで繰り返した。
「日本に新兵器の威力を知らせて衝撃を与えれば、日本が名誉を失わずに恐ろしい戦争を止めるだろうと期待したのです。だから、原爆を投下すれば多くの犠牲者が出てしまいますが、それにもかかわらず、私達は日本とアメリカの両国の何百万人もの人間の命を救いたいと願ったのです。」


翌日、コンプトンは日本語ができる知人から日本の報道陣に対する前日のこの発言が日本のメディアで取り上げられなかったと聞かされた。コンプトンは、マンハッタン計画の責任者の地位にあった自分に対して日本人が謝罪を期待していたのだと思った。しかし、大東亜戦争と太平洋戦争を引き起こし、数多くのアメリカ人の命をも犠牲にした日本人全般に対して原爆投下に関して謝罪するつもりはコンプトンにはなかった。コンプトンは人間性のもっと深い共通した部分に訴えかけてみようと機会を待った。


日本への到着から一週間後にある都市で開かれた共同記者会見でコンプトンはその機会を掴むことがで
きた。一人の日本人記者がコンプトンに対して同じ質問をした時、コンプトンは全ての日本人を目前にしたつもりでこう問いかけた。
原子爆弾投下なしにあのような戦争を継続したほうが良かったのでしょうか?日本のみなさんはそのほうを望んでいたのでしょうか?」
記者会見場は一瞬、沈黙に包まれた。そして会見が元どおり進行を取り戻した時、同様の質問を繰り
返す記者はいなかった。記者会見が終わって一同が解散した時、原子爆弾投下に関する質問をした記者がコンプトンに歩み寄ってこう言った。
「あんな質問をしてすみませんでした。」
日本の降伏直後にマニラから日本に赴いたコンプトンの兄、カール・コンプトンは仕事で接することのできた英語が堪能な日本人に終わったばかりの戦争に関する各種の質問をし、その内容をある評論誌に寄稿し、それを読んだ弟のアーサー・コンプトンは、原子爆弾投下が必要だったことは日本人自身が知っていると感じたのであるが、日本を訪れたアーサー・コンプトンはそれを更に確信した。コンプトンの兄であるカール・コンプトンはある日本人と話した以下のような内容を伝えた。


「『原子爆弾が投下されず、日本が戦争を継続していたとしたら、次はどうなっていなのでしゅか?』と私が尋ねると元軍人だったその日本人はこう答えた。『アメリカ軍は九州に上陸すると思われたので九州の海岸を防備するように兵力を移動していたでしょう。』そこで私はさらに尋ねた。『アメリカ軍の上陸を差し止めることはできたと思いますか?』この問いに対して彼はこう答えた。『私たちは必死で抵抗したでしょう。でも、アメリカ軍の進行を留めることはできなかったと思います。私たちは、最後の日本人が死ぬまで戦ったでしょう。そうすることによって敗北、そして降伏という恥辱を避けたと思います。』ciii[19]civ[20]」


原子爆弾投下によって多数の死傷者が出ることを知りつつも、科学者小委員会においてコンプトンは原子爆弾投下の決定を強く押したのであるが、コンプトンは非戦を絶対的な信条とするメノー派新教の教えに自分がそむいたわけではないと確信していた。メノー派新教徒としてコンプトンはどうあっても戦争を終わらせなくてはならなかった。ただ、全面戦争の只中において平和主義を貫徹することは多大な犠牲を伴うのである。


第二次世界大戦が終わってから一九五十年代の半ばにかけて、コンプトンは世界中を周遊し、各地の
科学者と知己を深め、物理学の知識を広め、非戦を説いたが、一九五十年代の後半から次第に活動を縮小し、一九六二年に七十歳で亡くなった。

(読書ルーム(150) 「フェルミ」 に続く)

 

【参考】

アーサー・コンプトン (ウィキペディア)

エドワード・テラー (ウィキペディア)

イシドール・ラバイ (ウィキペディアの見出し「ラービ」はフランス語の発音でここでは綴りが同じユダヤ教の聖職者の英語の発音を採用しました。)

 

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【読書ルーム(148) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 ソビエトとの確執 8/8 】  作品の目次  このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【あらすじ】

公聴会を終え、オッペンハイマーは公私共に深い傷を負って政府の原子力政策委員という公の立場から去らないといけなくなった。それでもなおオッペンハイマーにはプリンストン大学アインシュタインの上司兼後継者として後進の科学者を育てるという任務が残されていた。一方で公聴会オッペンハイマーに決定的な打撃を与えたテラーはこの後ロスアラモスで行われた学会で科学者コミュニティーの多数派がオッペンハイマーに味方し、水爆実験に賛成している科学者でさえ、科学者の良心の証(あかし)かつ砦(とりで)であるオッペンハイマーを公職に留めるべきだったと考えていることを思い知る。

 

【本文】

公聴会は五月六日に終わり、公聴会としての結論は五月末に、原子力委員会の最終的な決定は六月末に下されることになったが、公聴会が終わった時にすでにオッペンハイマーは自分には政治向きには何も残されていないということを悟っていた。当局に対する身上に関する嘘を暴かれ、果ては昔の恋人で共産主義者だったタトロックとの不倫関係まで公の場で公表されて神経をすり減らしたオッペンハイマーからは富豪の息子で国民的英雄としての面影は失せ、その姿は見る影もないほどやせ細った殉教者のように変わり果てていた。オッペンハイマーの妻キティーは酒に溺れ、中学生と小学生になる二人の子供は学校で「おまえのお父さんは共産主義者だ。」と言っていじめを受けた。公職からの追放後も長い間、秘密の社会主義陣営への漏洩やオッペンハイマー自身の社会主義国への逃亡などを阻止する目的でFBIの職員が影のようにオッペンハイマ-にはつきまとい、ロス・アラモス時代やそれ以前からオッペンハイマーと親しくしている科学者で水素爆弾の研究に携わっている者はオッペンハイマーとの接触を禁じられ、その他の科学者たちもオッペンハイマーと話しをする時には言葉を選ぶようになった。しかし、それでもなお、オッペンハイマーには、プリンストン大学高等研究所の教授として、そして年老いたアインシュタインの上司兼後継者として物理学者を養成し、学問の場に築かれた平和の砦を守るという仕事が残されていたci[17]。


一連の出来事で大きく傷ついたのはオッペンハイマーだけではなかった。公聴会で決定的な証言をしたエドワード・テラーも、オッペンハイマーの公職からの追放が決定的になった後で自分が取った行為の意味について知らされることになった。


その年の夏、ロス・アラモスで学会が開かれ、テラーも学会に出席するためにロス・アラモスに赴いた。水素爆弾の開発などが行われているロス・アラモス研究所の最寄りのホテルのホールを借りた夕食の席上、コロンビア大学教授のイシドール・ラバイがオッペンハイマーの教え子のカリフォルニア工科大学教授と隣合わせの席で話をしているのを見たテラーは席を立って二人に近づき、満座の視線はそれだけでテラーとラバイに集中した。テラーは以前と変わらない親しさで挨拶をし、ラバイに握手を求める手を差し出した。しかしラバイははっきりと握手を拒む身振りをした上でテラーに向かって冷ややかにこう言った。
公聴会での証言はお見事でしたね。」
同席のカリフォルニア工科大学教授も冷ややかな目つきで恩師の仇であるテラーを見た。非公開のはずの証人喚問でのそれぞれの証言内容はなぜか細大もらさず原子力に関わる全ての科学者が知るところとなっていたのである。満座の視線が自分に注がれていることを感じながら自分の席に戻ったテラーは食事を続けたが、テラーに話しかけるどころかテラーと視線を合わせることさえ避ける満座の科学者たちが醸すその場の雰囲気にいたたまれなくなり、終にテラーは食事の途中で席を立って自室に戻った。ラバイの一言は短刀のようにテラーの心を鋭くえぐり、テラーはホテルの一室で重苦しい不眠の一夜を過ごした後、学会には出席することなしにロス・アラモスを去った。その後十年間、テラーがロス・アラモスを訪れることはなかった。テラーが水素爆弾開発を強力に支持した理由は、ソビエトの介入によって国民の意思に反して今や社会主義化されつつある、生まれ育った祖国のハンガリーを想い、スターリンによって公然と人権蹂躙が行われたソビエトにかつてのナチス・ドイツを重ねたことだった。そして、原子力委員会に対して水素爆弾開発を熱心に提唱することは、一九三九年の夏にナチス・ドイツによる原子爆弾開発という悪夢のような可能性につき動かされ、シラードと共にアインシュタインに大統領宛ての手紙を携えて面会を求めに行ったのと全く同じだとテラーは思っていた。しかし、科学が持つ底知れない力に政治権力がいまだ目覚めていなかった一九三九年と原子爆弾が広島と長崎に投下された後の一九五三年とでは時代が変わっていたのである。また研究成果の発表を自粛するように要請したテラーらを学問の自由の原則を盾にして「偏執狂(ナ ッ ツ)」と呼んで一笑に付した、ノーベル賞受賞者だったとはいえアメリカに移住してきたばかりでアメリカ国籍さえ取得していなかった一九三九年のフェルミと、原子爆弾が広島と長崎で多数の一般市民を殺傷した後で科学者の良心を弁護しようとした国民的英雄のオッペンハイマーとでは置かれている立場が異なり、また科学者全般が置かれている状況も当時とは異なっていた。

 

(読書ルーム(149) 功労者たちのその後 に続く)

 

【参考】

エドワード・テラーは水爆の父と呼ばれ、その人となりは「博士の異常な愛情 (Dr. Strange Love)」別題「私は如何にして水爆を愛するようになったか」の中で偏執的な車椅子の科学者として戯画化されています。なお原子力開発の功労者には原子爆弾開発の前にも後にもスェーデン科学アカデミーは多くのノーベル物理学賞ノーベル化学賞を与えていますが、水爆開発に限ればノーベル賞受賞者は恒星が輝く仕組みを解明したハンス・ベーテ以外の科学者はノーベル賞は獲得していないようで、エドワード・テラーは朋友ベーテにロスアラモスでの人事に於いてのみならずここでも出し抜かれてしまいました。

かわまりの映画ルーム(160) 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか 〜  古色蒼然の恐怖戯画… 6 点

 

 

みんなのシネマレビュー

 

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【読書ルーム(147) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 ソビエトとの確執 7/8 】   作品の目次   このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【あらすじ】

シラードによる調整を経ずに公聴会の証言台に立ったテラーは水爆開発のためにオッペンハイマーを排除しなければならないという自分の考えが科学者全般の意見を代表するものだと信じたまま、ゲッチンゲン時代からの朋友オッペンハイマーを攻撃する証言を行ったが、多くの科学者による自分に対する好意的な証言を聞いた後のオッペンハイマーはそれを聞いて耳を疑った。水爆開発を擁護するもう一人の科学者のローレンスは旧友のオッペンハイマーを排除したいが彼を傷つけたい思いも強く悩んだ。結局公聴会へのアメリカ西海岸からの出席を体調を理由に断り、代わりに書簡を提出したがその内容はオッペンハイマーにとって不利になるように勝手に解釈されてしまう。

 

【本文】

翌日、テラーの証言を聞きながら、オッペンハイマーは目の前に広げていたノートにこう書きなぐった。
「テラー・・・攻撃的で、道義にこだわって、ヒステリーじみた、水素爆弾の持つ二つの面みたいな男!」


証言の後、テラーはオッペンハイマーの席に歩み寄って握手を求める手を差し出した。オッペンハイマーは空ろな青い目でテラーを見上げ、差し出されたテラーの手を黙って握ったが、その時テラーは「すまなかった。」と言い、オッペンハイマーは呆然としたまま「君が何を言いたいのかわからなかった。」と答えた。しかし実際のところ、「オッペンハイマー博士を連邦政府に影響を与えることのできる地位に留めることは好ましくないと私は思います。」というテラーの結論を聞いてからでさえ、オッペンハイマーは自分の耳を信じることができなかったのである。


戦後も引き続きカリフォルニア州立大学バークレー校の教授兼同校付属放射線研究所の所長を勤めていたローレンスはオッペンハイマーに対して三十歳台の若い大学教授だった頃と変わらない友情を感じていた。しかし、オッペンハイマーカリフォルニア州バークレーから去って東海岸に転居し、政治に対する発言権を得たことをローレンスは快くは思っていなかった。マンハッタン計画の完遂は多数の科学者や技術者のチーム・ワークの所産であるのに、その頂点に立っていたオッペンハイマーは最高責任者としての自分の業績を過大評価し、まるでそのせいで自分に政治向きの地位が与えられたかのように振舞っている、とローレンスは思った。ローレンスはテラーと同じく共産主義ナチスと同等の脅威と感じ、水素爆弾の開発はどうあっても継続されなければならず、その障害となるオッペンハイマーは政府から除去されるべきであると考えていた。しかしローレンスは、オッペンハイマーが政治的に失墜して被るかもしれない社会的、精神的な打撃だけはできるだけ緩和してやりたいと考え、またバークレーで長年友情を培ってきた自分がオッペンハイマーの解任を追認するような証言をしたならば、オッペンハイマーが受ける精神的打撃だけではなく、学生や世間一般の自分の人間性に対する評価がどう変わるのかとも考えた。そしてそう考えただけでローレンスはいてもたってもいられない気持ちにさせられたのである。


ワシントンDCでの公聴会で証言を予定していた日の数日前、ローレンスはテネシー州オークリッジで開かれた科学者と技術者の懇談会に出席した。正式な会議の場を離れると話題はオッペンハイマー公聴会のことでもちきりで、ローレンスもオッペンハイマーの旧来の朋友として様々な質問を受けた。ローレンスはそういった質問の重圧にすでに耐え切れず、持病の潰瘍から出血を見た。ローレンスは公聴会を欠席し、バークレーに帰宅した後、公聴会に要請されてオッペンハイマーについての個人的な所見を提出した。


オッペンハイマー水素爆弾の開発に反対する理由は全く根拠を欠いているとしか思えませんでした。」
ローレンスは公聴会にこういう意味の内容を書き送ったが、その後で公の場に引き出されてオッペンハイマーの人柄や自分との関係について問いただされることもなく、当然のことながら、質問に対して親友のオッペンハイマーを傷つけないように気をくばりつつ正直に答えようとして答えに窮することも、また意に反してオッペンハイマーを攻撃してしまうこともなく、ただローレンスの手紙によるこの回答は書いたローレンス本人の意思とは無関係に原子力委員会に有利に、そしてオッペンハイマーには不利なように解釈されてしまった。

(読書ルーム(148) に続く)

 

【参考】

 

【映画ルーム(160) 博士の異常な愛情 〜 古色蒼然の恐怖戯画… 6点】

 

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【読書ルーム(146) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 ソビエトとの確執 6/8 】   作品の目次   このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【あらすじ】

同郷の朋友シラードとの考え方の齟齬を認識することもないままシラードを探し求めていたテラーはその代わりにロスアラモスで人事を巡ってあまり良い感情を抱いていなかったハンス・ベーテに遭遇した。自分の考えは全ての科学者に共通であると思い込んでいたテラーはベーテに対してオッペンハイマー排除の必要性を解き、テラーのこの態度はベーテを驚愕させ、また憤慨させた。

 

【本文】

テラーはシラードが出席しているかもしれないと期待して物理学の学会が開かれている会場を訪れた。そこでばったり出会ったのはシラードではなく、公聴会で証言を済ませた後に学会への出席のためにワシントンDCに残っていた、ドイツ出身のユダヤ人でコーネル大学教授のハンス・ベーテだった。マンハッタン計画が離陸してからというもの、テラーとベーテはあまり良い関係にはなかった。その理由は、マンハッタン計画が進行中にオッペンハイマーがとった二人に対する処遇の差にあった。ロス・アラモスにおいては、発展しつつあるあらゆる組織と同じく、ある部門が肥大して一人の部長が統括しきれなくなった場合、部門を分割して新しい部門を創設し、新しい部長を任命するのが常だったが、理論値の計算を専らとする部門が独立した際、テラーの期待に反してオッペンハイマーが部長に任命したのはベーテだった。個性の強いテラーには多数の部下に対して采配をふるうのには向かず、テラーは相性の合う数人と共に小規模な企画に携わるのがふさわしいとオッペンハイマーは考えたのである。したがって、ロス・アラモスに出向している間中、テラーはベーテなど、大きな部署の責任を任された科学者たちに対して肩身の狭い思いを感じざるを得なかった。


テラーの姿を見とがめたベーテはテラーに歩み寄るとオッペンハイマーが解任されないように宜しく頼むと心から懇願した。しかしベーテの意見が科学者全般を代表するもだとは思っていなかったテラーはベーテに向かって、目下の国際情勢を鑑みるならば政府内部において水素爆弾開発に反対するオッペンハイマーアメリカを始めとする西側自由陣営の敵であり、また水素爆弾の開発に反対することは科学の発展を阻むことにもなるので、是非とも彼を政府には声が届かないところに追いやるべきだと述べた。ベーテは呆気に取られた。水素爆弾開発に反対していたベーテにとって、原子爆弾が科学者の手を離れて広島と長崎で大規模な殺戮と破壊を行った後の世界において、オッペンハイマーは科学者の良心を代弁する存在であり、そのオッペンハイマーが政府内部で発言権を失わないよう、科学者は一丸となってオッペンハイマーを弁護するのが当然だとベーテは考えていたのである。テラーとのこの会話は思い出す限り生涯で最も不快なものだったとベーテは後に述懐した。ベーテとテラーの間には決定的な亀裂が生じたが、その時のテラーはいまだベーテとの間に生じた亀裂は単に個人的な意見の相違に端を発するものだと考えていた。


一九三九年の夏にルーズベルト大統領に宛てた書簡を携えてシラードと共にロングアイランドで休暇中のアインシュタインの元に署名を求めに車を走らせた時と同様、自分が効果的な行動を採ることによって、オッペンハイマーやベーテのような水素爆弾の開発に反対する意見を覆し、事態は西側陣営の強力な核武装のほうに傾くであろうと公聴会での証言を目前にしたテラーは思った。

(読書ルーム(147) に続く)

 

【参考】

ハンス・ベーテ (ウィキペディア)

 

映画ルーム(160) 博士の異常な愛情 〜 古色蒼然の恐怖戯画… 6点

 

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【読書ルーム(145) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 ソビエトとの確執 5/8 】   作品の目次   このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。


【あらすじ】

オッペンハイマー解任の件に関する公聴会では概ね水素爆弾開発によって利益を得る産業界の代表が彼を攻撃し、彼の人となりを知る科学者らが擁護する立場を取った。ただ水爆開発を強く推すテラーにとってはオッペンハイマーは邪魔者でしかなかった。テラーは第二次世界大戦勃発直前にともにアインシュタインを動かして大統領に書簡を送った同郷の朋友シラードも自分と同じ考えであると考え、公聴会で証言する前にオッペンハイマーを排除するための策を一緒に練ろうとワシントンDCの市中でシラードの姿を求める。しかし、マンハッタン計画が進行中に職場を異にした二人には考え方に大きな相違があり、そしてこの後に及んでも二人はお互いを同志だと考えていた。

 

【本文】

オッペンハイマーを古くから知る科学者たちがオッペンハイマーの人柄と水素爆弾開発に反対する純粋な動機を擁護したのに対し、ストラウスを中心とするオッペンハイマーに反対する原子力委員会の関係者らはオッペンハイマーを執拗に批難し、水素爆弾開発に反対する姿勢を共産主義に結びつけて糾弾しようとした。


オッペンハイマーにはハーコン・シェブリエという、両親の国際結婚によって北欧風の名前とフランス風の苗字を持つフランス語教師の友人がいた。オッペンハイマーは文学への関心を通じてシェブリエと知り合い、親交を結んだのであるが、シェブリエにはアメリカ企業に勤めているイギリス人の技師の友人がいて、そのイギリス人技師にはソビエトの技術者と交友関係を結んでいるということが判明していた。ストラウスを代弁する諮問委員会の委員はオッペンハイマーに鋭く問いただした。


「一九四三年始めの某月某日、あなたは妻とともにハーコン・シェブリエとその妻を自宅に呼んででもてなしました。四人の間で話題が一段落した時、あなたは席をはずし、好物のマルティニを自分で作ってみんなにふるまおうとして台所に行きました。するとシェブリエもあなたを追って台所に向かいました。その後、台所でシェブリエとの間にどんな会話があったのですか?」


十年以上も前でオッペンハイマーがロス・アラモスに移る直前の一九四三年年初某月某日の台所での会
話に関してはハーコン・シェブリエも喚問を受けたがシェブリエとオッペンハイマーの証言には食い違いがあった。結局、この事件に関する二人の曖昧な証言からはオッペンハイマーソビエトの技術者と通じているという確証は得られなかった。政府内の鷹派や原子力委員会のストラウスが仕組んだこの謀略によってシェブリエはフランス語教師の職を失った。


エドワード・テラーは公聴会開始の一週間後、四月二十八日に証言することが決まった。居住していたカリフォルニアからワシントンDCに赴くに先立ち、用があってニューヨークに滞在中だったシラードからテラーの承認喚問の前日にワシントンDCに行くという連絡があった。一九五二年にテラーがカリフォルニアに転居した後、シカゴで生物学を研究するシラードとは両者ともに原子物理学を研究していた以前ほど頻繁に交渉することはなくなったが、テラーはナチスの脅威を共に感じ、ロングアイランドで休暇中のアインシュタインを二人で訪ねてルーズベルト大統領宛ての手紙への署名を要請した一九三九年の夏と同じく、シラードが共産主義に脅威を感じて水素爆弾の開発に賛成しているものだと思い込んでいた。そして、水爆開発の明らかな障害となるオッペンハイマーを政府の諮問機関から除去するための智恵を借りようと、テラーはワシントンDCのめぼしいホテルや旅行者が訪れそうな場所をシラードのずんぐりした姿を求めて歩き回った。


同じ頃、テラーが滞在するホテルの名前や場所を知らなかったシラードはテラーと同じく、ワシントンDCのめぼしいホテルや旅行者が訪れそうな場所を、長身のテラーの姿を求めて尋ね回っていた。シラードにとってオッペンハイマーの今回の事件は科学者の良心への国家権力の許すべからざる介入だった。シラードはオッペンハイマー連邦政府への頻繁な発言を意図して東海岸に転居したと聞いた時から政治に対するオッペンハイマーの野心が理解できず、科学者が関わるべきではない余計なことに彼が気を取られていると思っていた。しかしシラードは、三十歳台だった頃のオッペンハイマーの純粋な理想主義を理由としてオッペンハイマーを諮問委員長の職から解任するという政府の措置には断固抗議しなければならないと考えていた。そこでシラードは翌日の証人喚問ではオッペンハイマーの国家に対する忠誠心が疑われるような発言は決してしないようテラーに懇願しようと考えてテラーを探し回ったのである。

(読書ルーム(146) に続く)

 

【参考】

エドワード・テラー (ウィキペディア)

レオ・シラード (ウィキペディア)

 

【映画ルーム(160) 博士の異常な愛情 〜 古色蒼然の恐怖戯画… 6点】

 

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