【読書ルーム(133) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 エプシロン作戦 5/5 】  作品の目次

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【本文】

それから数日後、ハーンは担当のイギリス人将校に依頼して原子力開発の過程を写真入りで解説した英語雑誌「ライフ」の特別号を手に入れた。居間で雑誌に見入っているハーンにフォン・ワイゼッカーが声をかけた。
「どうせドイツ人の科学者がほとんどなんだろう。」
「そんなことはないさ。」と答えながらハーンは雑誌に掲載された自分の顔写真だけに見入っていたlxxxix[5]。


不眠をかこつハーンの脳裡には、「広島・長崎の原爆投下に抗議して核分裂を世界で初めて確認した科学者が自殺!」の見出しと共に自分の顔写真を第一面に大きく掲載した世界の主要紙、そして第一次世界大戦中に夫フリッツ・ハーバーの毒ガス製造に抗議して自殺を遂げたドクトル・クララ・インマーヴァルト・ハーバーの、少女のようにふっくらとした顔かたちに目だけが鋭く光る凛とした表情があったのかもしれない。フリッツ・ハーバーとの結婚と同時に科学の道を断念して専業主婦に納まったクララ・ハーバーの手は第一次世界大戦中に使用された毒ガスで汚されていたわけではなかったが、同じ時期にハーバーに従ってベルギーのイプロスで毒ガスを撒いた時に垣間見たフランス兵の苦悶の表情は三十年たってもハーンの脳裡から消え去っていなかった。若い科学者たちの動揺を静めようとして「フランスとロシアも別の前線でドイツに対して同じことをやった。」と言ったフリッツ・ハーバーの言葉は嘘だった。あるいは、ハーグ条約に違反して戦線で毒ガスを最初に撒いた国はドイツだったので、少なくとも、第一次大戦が始まって間もない頃にはハーバーは後輩に対してでたらめな嘘をついていたわけである。ハーバーの嘘を知ったハーンは、兵器の開発に繋がるような研究には二度と携わらないことを誓った。


ハーンが立ち上がり、肩を落としてよろよろと寝室に向かうのを残りの科学者全員は無言のうちに見送った。ハーンの心の痛みは理解できても、彼らにはどうすることもできず、ただハーンが自力で立ち直るのを願うしかなかった。ハーンが姿を消した後でハーンと寝室を共有しているフォン・ラウエが全員に向かって言った。
「ハーンはもう何日も眠っていないようだ。自殺するんじゃないかと心配だ。」
しかしフォン・ラウエ以外の残りの科学者たちも、自殺までは考えないまでもアメリカの科学者が原子爆弾開発に成功したことによって大きく心を揺さぶられていた。実際のところ、広島と長崎に原子爆弾が投下された後で十人の中で最も平静を保っていたのは、連合軍によって拘束された当初には「ナチスに抗議してベルリン大学の教授の職を辞したこの私がなぜ連合国によって拘束されなければならないのだ?」と憤懣やるかたなかったフォン・ラウエだったxc[6]。


フォン・ラウエは一九三八年暮れのハーンとシュトラスマンによる核分裂の確認以来、「核分裂を兵器の製造に利用することはできるか?」という質問に対しては「多分できるだろう。」と答え、「ハイゼンベルクがそれに成功するだろうか?」という質問に対しては「心の底では絶対に作りたいくないと思っているものを作れるわけがない。」と答えたxci[7]。第一次世界大戦中にドイツに尽くした科学者のフリッツ・ハーバーは、ユダヤ人だという理由でドイツを追われ、パレスチナに向かう講演旅行の途中、スイスで失意のうちに客死したが、その時にもフォン・ラウエはナチスの不興にもめげずに師のプランクと共にハーバーを追悼する集会を催した。平和主義者アインシュタインの親友にして日本への原子爆弾投下に最後まで反対したレオ・シラードの師でもあるフォン・ラウエ、細身の体に紳士的な物腰をたたえたフォン・ラウエは第二次世界大戦中、ナチスの暴虐を前にして自らの命を堵して決してひるむまず抗議の姿勢を示し、ハイゼンベルクらの良心を信じ、邪悪なナチスハイゼンベルクが才能を発揮することを阻み、また原子爆弾ハイゼンベルクらによって完成されることは決してないと本心から思っていたxcii[8]。
* *

(読書ルーム(134) に続く)

 

【参考】

フリッツ・ハーバー (ウィキペディア)

 

クララ・インマーバルト・ハーバー (ウィキペディア)

(注) 「イマーバール」はフランス語読みでドイツ語では上記になります。

 

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