【読書ルーム(130) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス達よ』第6章  冷戦 〜 エプシロン作戦  2/5 】  作品の目次

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

【本文】

「壁に盗聴器がしかけてあるかもしれない。」と到着後まもなくディープナーが冗談めかして言い、ハイゼンベルクが「ゲシュタポじゃあるまいし、そんな手のこんだことはしていないさ。」と答えた。しかし実際、邸内の居間や各寝室の壁という壁にイギリス軍の手によってしかけられた盗聴器からイギリス軍の基地に向けて送信される十人の科学者たちの会話にドイツ語が理解できる軍人が間断なく耳を傾け、十人の会話の話題が原子力に触れそうになる度に録音機のスイッチが入れられたが、十人が抑留の真の理由を察知するきっかけを与えるような事件は十人の抑留期間中を通じてたった一度しか起きなかった。すなわちそれは、十人の抑留期間も終わりに近づいていた一九四五年のクリスマスの直前、ドイツ人科学者とイギリス軍将校の合同クリスマス・パーテイーの準備として蓄音機にスピーカーを取り付ける作業がなされていた最中に、盗聴器のワイアーが誤って切断されてしまい、ドイツ人科学者たちが数時間にわたって居間への立ち入りを禁止されたことだった。この事件以外には十人のドイツ人科学者たちが会話を盗聴されていると察知するような出来事は全く起きなかった。


連合国はこぞって、十人の科学者たちが原子力開発に関して何をどの程度知っているのかに非常な関心を持った。また、敗戦によって混乱を極めているドイツ国内が一応の落ち着きを取り戻すまでの間、十人の科学者たちをソビエトなどの社会主義国に奪われないようにするという目的もあった。終戦時にドイツ国内に居住していた科学者の中で、周波数の単位に名前を留めたノーベル賞受賞者のグスタフ・ヘルツらをソビエトに奪われてしまった。


イギリスを主体とする連合国によるこの一連の作業は「エプシロン作戦」と呼ばれ、この時に録音された音声記録は録音後五十年間、極秘資料としてイギリス政府の手に収められていたlxxxvii[3]。


朝は鳥の声に目を覚まし、最高級のコーヒーや紅茶と贅沢づくしの朝食、緑と美しい花々に囲まれた屋敷の周囲の散策、テニス、卓球、ラジオ、新聞、科学の専門誌に文学全集、ハイゼンベルクが奏でるピアノ、イギリス風のティー・タイム、古き良き時代の貴族を思わせる毎夕の晩餐と語らい等々、外界との連絡が遮断されていることと祖国ドイツに残された家族たちが敗戦の窮乏の中にいることを除けば、これ以上を望むべくもない、一般人がどれほど羨望してもかなわないような贅沢な生活を始めた十人の科学者たちの戸惑いと諦めの心情はしかし、屋敷への到着後一ヶ月にして根底から揺るがされることになった。


八月六日の夕方、当直のイギリス人担当官がオットー・ハーンを別室に呼び、日本の広島に原子爆弾が投下されたことを告げた。報道機関からではなく連合軍内部での情報交換によって詳細を得ていた担当官はさらに、爆発の規模はトリニトロトルエン(通称TNT)火薬二万トン分に相当したこと、広島での死傷者が数十万人に上ったこと、開発には五億ポンドの費用と数万人規模の労働力が費やされたことなどもハーンに告げた。担当官がオットー・ハーンを別室に特別に呼んだのは、夕方六時のBBCのニュースをハーンに聞かせないようにするためだった。ハーンは深い衝撃を受けたが、それでも仲間と夕食を共にするために食堂に赴いた。ハーンが食卓につくのを待っていた残りの科学者たちに向かって、ハーンは今しがた担当官から告げられたとおりの事実を報告し、その後でこう付け加えた。
アメリカがウラニウム爆弾の開発に成功したということは、われわれ全員が二流の科学者だったということだ。かわいそうなハイゼンベルク!」そしてこれを聞いたフォン・ラウエが吐いて捨てるように言った。「無邪気なもんだ。」
次いでハイゼンベルクがハーンにこう聞きただした。
「イギリス人担当官はその爆弾に関して『ウラニウム』という言葉を使ったのか?」
これに対してその場にいた複数の科学者が声を揃えて「そんなことはないだろう!」と言った。ハイゼンベルクは続けて言った。
「じゃあ原子爆弾じゃないんだ。でもTNT火薬二万トン分の威力だったとはすごいな。」
ゲルラハが原子爆弾にはウラニウム爆弾の他にもプルトニウム爆弾があり、その他にも原子番号九十三番の人造元素ネプトゥニウムも爆弾に使われる可能性があるということをしゃべろうとしたが、ハイゼンベルクはゲルラハの話を途中で遮った。
アメリカの無知で物好きな誰かが虚勢を張って『これを実際に投下したらTNT二万トン分の威力があるはずだ。』とか何とか言ったというだけで本当はそんなもの存在しないんじゃないかな。」そして一同はそのような爆弾の存在可能性や製造方法について議論を始めた。しかし、議論の途中で重水の専門家だという理由で抑留されているヴィルツが声を上げた。
「それにしても、われわれがそんな爆弾を持ってなくてよかったな。」
「そんな話をしているんじゃない。」とハイゼンベルクは言い放ち、しばらく沈黙が一同を支配した。一同はやはり、TNT火薬二万トン分の爆発によって数十万人の一般市民が死傷したという事実の真偽と意義について考えないわけにはいかなかった。フォン・ワイゼッカーが終に口を開いた。
「そんなことをするなんてアメリカ人は恐ろしいやつらだ。気違い沙汰だ。」
「そうとばかりは言えない。」とハイゼンベルクが答えた。「それが戦争の終結を早めるのならばね。」
そして一同はまた沈黙し、次にはハーンが口を開いた。
「そう考えなければ私にとっては救いようがない。一時期、私はウラニウムなんて全部海に捨ててしまえばいいと思ったことさえある。一つの県が吹っ飛ぶような爆弾だって作れるんだから。」

 

時刻は夜の九時になろうとしていた。十人の科学者たちはなにをおいてもニュースの報道で確認された事実を知ることが先決であるとしてラジオのスイッチを入れた。BBCのラジオ放送はグリニッジ標準時午後九時のニュースで初めて広島に投下された原子爆弾の詳細について語った。BBCは原子爆弾に使用されたのはウラニウムで開発に要した費用は約五億ポンド、投入された労働力は十二万五千人だと告げた。

(読書ルーム(131) に続く)

 

【参考】

ネプトゥニウム もしくは ネプツニウム (ウィキペディア)

 

ゲシュタポ (ウィキペディア)

 

グスタフ・ヘルツ (ウィキペディア)

 

【お知らせ】

下の画像は作りかけの本作品電子版の表紙です。出版社はお任せ出版社のアマゾン(Amazon International Services)です。ということは今のところアマゾン専用の電子ブックリーダーのキンドルのみで講読が可能だということです。こちらはそれほど高額ではありませんが有料となります。キンドル版には次のような優れた点があります。

・ 縦書き表示であること

・ 文字の大きさを変えられ、また字体を変えたり太字にしたりできること

さらにキンドルは数百冊以上の書籍を入れることができ、重量は文庫本並みです。アマゾンはお任せ出版社なので内容や誤字脱字などには自分で責任を持たないといけませんが精一杯努力する所存です。

 

f:id:kawamari7:20220101133810j:image