【『プロメテウス達よ』第3章 プロメテウスの目覚め〜コペンハーゲン 2/3 】
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【本文】
そればかりではなかった。ボーアの妻はボーアがハイゼンベルクを自宅に招いたことを非難し、今からでも断ることはできないかと言った。ハイゼンベルクの東ヨーロッパを馬鹿にした発言の話を聞くまでもなく、ボーアの妻にとっては自分の国を無理やり占領した国の国立研究所の所長を自宅に招いて歓待することなどまっぴらだったのである。ボーアはハイゼンベルクとは学問の話しかしないことを妻に約束し、やっとハイゼンベルクを迎えるための晩餐の準備に取りかからせることができたxxxix[13]。
ボーアの自宅を訪れたハイゼンベルクは学生だった昔とは異なる慇懃でよそよそしい扱いをボーア夫妻から受けた。晩餐の後、以前と全く変らない尊敬と友情を個人的に感じている師のボーアに対してハイゼンベルクはただ、客間のピアノに向かってモーツアルトのピアノソナタ K 三三一番、第三楽章のトルコ行進曲によって広く親しまれている作品の優雅な第一楽章を心をこめて奏でてみせたxl[14]。ドイツでナチス政府の庇護の下にある国立研究所の所長とドイツの被占領国であるデンマークに危険を覚悟の上で留まっているユダヤ人科学者という立場の違いを埋めるためには、言葉はもはや何の役にも立たなかった。それでもなおかつ、自分の気持ちを何とかして言葉によって師に伝えようと、ハイゼンベルクはボーアを夕べの散策に誘った。ボーアの立場やユダヤの血を引く素性から考えてボーアの屋敷内にはゲシュタポの手によって盗聴機器などが当然のごとくに据え付けられているとハイゼンベルクは考えていた。師とともに日没後の公園を無言のまま散策しながらハイゼンベルクは慎重に言葉を選び、師から最も助言を乞いたかったある疑問について終に口を開いた。
「先生、科学者が戦時中に、甚大な結果をもたらすかもしれない武器の開発に関わるのは正しいことでしょうか?」
ボーアは質問が含む意味を瞬時に察知し、ハイゼンベルクに尋ね返した。
「君は核分裂を応用して大量破壊兵器が作れると本気で考えているのかね?」
これに対してハイゼンベルクはやはり言葉を選んで慎重に答えた。
「原理的には可能だと言えますが、実現には多大な資源と労力が必要とされるはずです。今の戦争が終わるまでにそんなことが実現しないことを願うばかりですxli[15] 。」
(読書ルーム(88) に続く)
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