【読書ルーム(76) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス』第3章  プロメテウスの目覚め〜再び錬金術 2/5 】


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【本文】

大学教授としても家庭人としても身を固めていたアーネスト・ローレンスとはうらはらに、ローレンスよりも三歳年下のロバート・オッペンハイマーは三十歳後半になってもいまだ、研究と授業の合間に文学や音楽に没頭する青年時代と変わらない生活を送っていた。心理的に二十歳後半に至るまでの長い思春期を過ごしたオッペンハイマーも今や大学教授として安定した地位を得、生涯の研究テーマのみならず将来の伴侶を求めてもよい時期に差し掛かっていたのであるが、オッペンハイマーの研究姿勢は弟フランクからみても「水銀のようにころころ変わり」、ローレンスやフェルミのように一つのテーマを一貫して追求することはなかった。整った顔立ちに魅力的な青い目、ロマンチックな巻き毛、すらりと背の高いオッペンハイマーは落ち着いた物腰をたたえ、物理の理論に思索を巡らす傍ら文学や音楽に親しみ、見た目も中身も漁女家ドン・ファンとは似ても似つかない学究だったが、一方ではパサデナバークレーの二つの大学街でオッペンハイマーに好意を示す才色兼備の女性に対してはいとも容易に心を傾けては浮名を流し、大学院生時代にすでに後に妻となる女性と安定した関係を得ていたローレンスとは対照的だった。

 

オッペンハイマーが大学に就職したすぐ後、ゲッチンゲン大学で美人として評判だったドイツ人女性物理学者がオッペンハイマーを追ってアメリカに渡って大学講師となった。しかし、その女性はオッペンハイマーの冷淡な態度のせいでドイツに戻って別の同級生と結婚してしまった。その次に交際した大学院生の女性をオッペンハイマーは車でのデートの途中でキーをつけたままの車と一緒に置き去りにして徒歩で帰宅してしまい、警察沙汰の大騒動を引き起こしてしまった。そして、ヨーロッパで戦争が勃発した頃、オッペンハイマースタンフォード大学医学部の女子学生と交際を始めてすでに何年目かになっていた。

 

オッペンハイマーと医学を専攻する女子学生ジーン・タトロックはカリフォルニア州立大学バークレー校でイギリス文学を教えるタトロックの父の友人を通じて知り合った。父の影響で少女時代から文学に親しみ人間の本質に対する関心からフロイトユングのような精神分析医になることを目指して医学の道に進んだタトロックと大学卒業後に精神分析医にかかったこともあるオッペンハイマーとは文学や人間精神についての関心を共有し、二人はお互いの精神の問題を包み隠さず話し合いった。タトロックはオッペンハイマーにイギリス十六世紀の詩人ジョン・ダンの作品を読むように勧めた。オッペンハイマーがその頃関心を寄せていた共産主義に関してもオッペンハイマーよりも十歳も年下ながら豊かな知識を擁し、活動家の友人などを知己としていた。ローレンスを含むオッペンハイマーの知人らはアインシュタインの宇宙理論の精緻化を試みる一方で共産主義の勉強会などにも出席し、マルクスの「資本論」を原書で読破するオッペンハイマーとタトロックが結婚したならば一体どのような家庭が生まれるのかと二人の行く末をはらはらしながら見守った。しかし、四年間続いたオッペンハイマーとタトロックとの交際には思いもかけないことで終焉が訪れた。一九三九年、オッペンハイマーは研修医の妻で大学院で生物学を研究している女性キティー・ハリソンとパセドナのパーティーで出会い、すぐさま熱烈な恋に陥った。二人は会う瀬を重ね、オッペンハイマーはキティー・ハリソンをニュー・メキシコにある別荘にまで招待したのである。その後の二人の関係は周囲も驚くほど速やかに進展した。キティー・ハリソンは夫と離婚するために、離婚手続きが全米で最も簡単なカリフォルニア州の隣の州、ネバダ州に転居し、ネバダ州の住民となるために最低限必要とされる六週間が経過したその日に夫と離婚した。そしてその日のうちにオッペンハイマーと共にネバダ州内の別の市に移動し、町役場でオッペンハイマーとの結婚式を挙げたのである。結婚式に立ち会って証人となったのは町役場で出会った二人の公務員、一人は事務職員でもう一人は用務員の二人だけだった。

 

バークレーに戻ったオッペンハイマーと新妻のキティーは、バークレーの知人宅を結婚の顔見せに回り、ネバダ州で結婚式を挙げなければならなかったせいで披露宴も行えず、結婚式に知人を誰一人として招待することができなかったことを詫びた。オッペンハイマーとキティーが連れ立ってローレンスの自宅を訪れた時、ローレンスとその妻は呆気に取られてお互いに顔を見合わせたが、それはオッペンハイマーの新妻キティーが陶製の人形のように端正な容姿をしたオッペンハイマーの元恋人ジーン・タトロックとは対照的な肉感的な魅力に溢れる女性だったせいだけではない。キティーオッペンハイマーはマタニティー・ドレスの下にそれとわかる大きな腹を抱えていた。

 

理論物理学者にして永遠の青年ロバート・オッペンハイマーボヘミアン風の独身生活にはこのようにして急遽終止符が打たれ、後にはキティ-の捨てられた前夫とオッペンハイマーの恋人であるジーン・タトロックが残された。タトロックはその後新しい恋人を作らず、同性愛者ではないかという噂まで流れたが、オッペンハイマーとはアメリ原子力開発計画が軌道に乗った頃、自殺を遂げるまで親密な関係を保った。

(読書ルーム(77) に続く)

 

【参考】

ジョン・ダン (ウィキペディア)

 

バリウム(barium)(デジタル大辞泉)
アルカリ土類金属元素の一。単体は銀白色の軟らかい金属。空気中では酸化され、水とは激しく反応して水素を発生する。炎色反応は緑色。バリウムイオンは有毒。重晶石・毒重石などとして産する。合金材料に使用。元素記号Ba原子番号56。原子量137.3。
X線造影剤に用いる硫酸バリウムの俗称

 

クリプトン (百科事典マイペディア)
元素記号はKr。原子番号36,原子量83.798。融点−156.6℃,沸点−153.35℃。希ガス元素の一つ。1898年ラムゼーとトラバースが発見。ギリシア語のkruptos(かくれたもの)にちなんで命名。無色無臭の気体。化学的に不活性だが,KrF2などの化合物が知られている。