【読書ルーム(44) プロメテウス達よ- 原子力開発の物語】

【『プロメテウス』第2章  新時代の錬金術師たち〜錬金術の最果ての地 3/4】  作品目次

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【本文】

ローレンスがカリフォルニア州立大学バークレー校で卓越したホモ・ファーベル(道具人)としての地位を築き始めた一九二八年の夏、サンフランシスコに近接したカリフォルニア州バークレーのはるか南、ロサンゼルスに近接したカリフォルニア工科大学で知られる学園街のパサデナを目指して一台の埃まみれの車が砂漠地帯をひた走りに走っていた。パサデナの中心部に位置するカリフォルニア工科大学のキャンパスにたどりつくと車は停車し、助手席からくたびれた風体の痩せて背の高い若い男が現れた。男は耳から下の髪を短く刈り込んで剃りを入れ、耳から上は黒い巻き毛が伸びるのまかせていたが、その頭髪は乱れて櫛を入れた跡もなく、顔は何日も髭を剃っていない有様で、服は薄汚れてところどころにかぎ裂きさえあった。しかし、男の風体でもっとも目を引いたのは負傷したらしい片腕を肩から吊っている真っ赤なバンダナだった。駐車した車の運転席からは続いてその男と服装も体型も髪型も髪の色も寸分違わない、背が若干低いだけで顔立ちは生き写しの少年が下り立った。二人はもの珍しそうに二人を見つめる大学構内の歩行者の眼をよそに大学の事務局に向かい、事務局で何かの用を済ませるとすぐさま大学教員の研究室や実験室があるブリッジ・ラボと呼ばれる建物へと向かった。

 

「ドクター・ロバート・オッペンハイマーです。ただいま到着しました。」とくたびれた風体の二人のうちの背の高いほうの男に声をかけられた物理学者のローリステン教授は驚いて声の主を頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺めた。オッペンハイマーのいでたちのあらゆる点が、ハーバード大学を優等で卒業し、ドイツのゲッチンゲン大学で博士号を取得したという、新しく赴任することになった新鋭の理論物理学者のイメージからほど遠かった。

「ああ、あなたがオッペンハイマー博士ですか。」とローリステン教授は言ったが、その後で「浮浪者が訪ねてきたのかと思いました。」と付け加えざるを得なかった。

 

一九二七年にゲッチンゲン大学で博士号を取得してアメリカに帰国したオッペンハイマーは一年間の求職活動の間に東部の名だたる大学から教員のポストへ招聘されたが、進取の気風の著しい西海岸の大学に惹かれ、カリフォルニア工科大学に就職することに決めた。そして、夏休み中だった高校生の弟フランクと連れ立っての砂漠地帯を車で横断する無謀な旅行の果てにパサデナにたどり着いたのである。学生時代を通じてオッペンハイマーは憂鬱症に悩まされ、イギリスのカベンディッシュ研究所に在籍していた頃には終に精神科医のもとに通うまでに精神状態が悪化したが、その後、文学と理論物理学との出会いによって自分自身の精神の問題をほぼ自力で克服していた。しかしそれでも、オッペンハイマーにはボヘミアン的な生き方が合っていた。

 

こうして、カリフォルニア工科大学に教職を得たオッペンハイマーだったが、博士号取得後すぐさま後にしたヨーロッパでの学問の進展に対しては好奇心を抑えきれず、スイスのチューリヒで短期間の研究職を得ることができた半年後には大学当局に事情を説明して休職を願い出た。この頃、オッペンハイマーカリフォルニア州立大学バークレー校の教員の席にも招聘されていたが、カリフォルニア工科大学カリフォルニア州立大学バークレー校で共通していたことは、両校ともにいまだかつて理論物理学を本格的にカリキュラムの中で教えたことがなく、オッペンハイマーが正に草分けとして学生の指導などを一手に引き受けなくてはならないということだった。

 

オペンハイマーはチューリヒでヴォルブガング・パウリの知己を得、さらに終生交流することになるポーランド生まれでニューヨーク育ちのユダヤ人物理学者イシドール・ラバイと出会うことになる。これはオペンハイマーにとって、イギリスのカベンデイッシュ研究所やゲッチンゲン大学への留学の時とは異なり、すでに学位を取得し、就職先も決めた後での気楽ながらも実り多い体験だった。すでにパウリの親友でライプチヒ大学の教員の地位を得たハイゼンベルクとも旧交を温め、コペンハーゲンやゲッチンゲンに足しげく顔を見せていたイギリス人の新鋭ディラックの知己を得ることもできた。英語圏出身のラバイとディラックに対して、オッペンハイマーは深い友情を感じ、物理学のみならず文学へも二人を誘おうとしたが、物理学一辺倒のディラックオッペンハイマーが贈り物として差し出した文学書を手に取って見るなりオッペンハイマーにつき返し「文学は時間を取るからいいよ。」と言ってこの贈り物を謝絶した。一方のラバイはキリスト教徒が書いた文学のみならず中国やインドの古典まで読み漁るオッペンハイマーに「タルムートxx[4]だけで十分だよ。」と言い放った。いずれにしても、オッペンハイマーチューリヒでの短期間の研究員の生活は学問の上でも交友関係においても多くをもたらし、オッペンハイマーは一九二九年の半ばにアメリカに帰国し、四百キロの距離を隔てたカリフォルニア工科大学カリフォルニア州立大学バークレー校の両校で教鞭を取るというボヘミアン教授の生活をその秋から開始した。

 

その頃、すでにカリフォルニア州立大学バークレー校でサイクロトロンの試作品の製作に着手していたオッペンハイマーよりも三歳年上のローレンスはたちまちのうちにオッペンハイマーの人と成りに魅せられたが、この二人ほど見た目も研究内容も異なった科学者はいなかった。実践家のローレンスがサイクロトロンの開発に余念がなかったのに対し、オッペンハイマーにとっては理論が全てだった。若い教授の二人が大学を離れて余暇のひと時を過ごす時、サウス・ダコタの中流家庭出身のローレンスは髪を七三に分けて撫でつけ、粋なベストやジャケットを身に着けていたが、ニューヨーク出身で富豪の息子のオッペンハイマーハーバード大学時代から変わらない鶏か孔雀のとさかを思わせるトレード・マークとも言える特異な髪型を就職してからも変えず、大学の外ではくたびれたシャツと色褪せたジーンズしか身につけなかった。ローレンスの車はワックスで磨きがかけられた最新のモデルで、オッペンハイマーの車は新車であっても中古車にしか見えなかった。坊ちゃん育ちで世間知らずの三歳年下のオッペンハイマーにローレンスは兄が弟に対するように接したが、その実、高校と大学学部を通じて苦学し、芸術に接する機会もあまりなかったローレンスはオッペンハイマーに言われるままに所持しているクラシック音楽のレコードに耳を傾け、勧められるままに文学書を手にし、オッペンハイマーの富豪の父か画家の母が買い与えたヨーロッパの数々の絵画に、オッペンハイマーの説明を聞きながら見入り、オッペンハイマーの助けを借りながら物理学以外の芸術分野にも関心を深めていったのである。

(読書ルーム(45) に続く)

 

【参考】

ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー (ウィキペディア)

ポール・ディラック (ウィキペディア)

ヴォルフガング・パウリ (ウィキペディア)

 

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