【『プロメテウス達よ』エピローグに代えて

「天然ウラニウム崩壊の発見から人工核分裂まで(オットー・ハーンのノーベル賞受賞講演)」2/7

 

一九三二年には陽電子重水素、そして最も重要なこととして中性子が発見されました。中性子は三つの国でなされた探査の結果として発見されました。最初にその存在を予知したのはドイツのボーテとベッカーでした。この二人は透過性が著しく高い放射線があることに気がつき、ベリリウムに照射してみて得られた結果からそれがガンマ線の一種だと考えました。次にはフランスのジョリオ=キューリー夫妻がボーテとベッカーが実験で得たとした「ガンマ線」が実際には水素原子核でも、あるいは陽子でもありえないことを証明しました。そして、イギリスのチャドウィックが終にこの実験結果に決定的な説明を与えました。ガンマ線とならんで、電荷をもたない質量数1の粒子、すなわち中性子が放出されていたのだというのです。ジョリオ=キューリー夫妻が発見した反応は、質量数九、原子番号四のベリリウムに質量数四のヘリウムを加えることによって質量数が十二で原子番号が六の炭素、および質量数一の中性子ガンマ線の放出を伴いながら生成されるというものでした。


中性子の発見によって過去長期間にわたって知られてきた同位元素の正体が解明されるにいたりました。化学元素の原子核は陽子と中性子から成っていますが、電荷を持つ陽子の数が元素の化学的性質を決定し、陽子と中性子の数の総和が原子量を決定するのです。従って、元素に含まれる中性子の数が多いか少ないかはその元素の化学的性質には影響を及ぼしませんが、鉛、水銀などに多数存在し、塩素にも二つ存在すると長年にわたって知られていたいわゆる同位体を形成するのです。一九三二年には水素の同位体、すなわち重水素が発見されました。重水素原子核は陽子と中性子を持ち、(陽子しかもたない)普通の水素の原子量が1なのに対して重水素の原子量は2です。当時知られていた、原子番号が最も大きい元素であるウラニウムも単純な元素ではなく、ラジウムに変化していくウラニウム二三八とプロアクティニウム系列とアクティニウム系列の元素に変化していくウラニウム235とがその中に混在しています。


中性子はまもなく、元素の変化の様を辿るために恰好の手がかりを提供すると目されるようになりました。中性子には電荷がないので、陽電気を帯びている原子核との間に排力が存在しません。しかしながら、ラザフォード卿が示した崩壊過程が、粒子放出によって陽子が原子核を離れるという、自然界で生じてほとんど常に安定した元素が生成される過程を簡略化した図式であるのに対して、ジョリオ=キューリー夫妻が観察した現象は全く新しいものでした。夫妻は一九三四年に、粒子をある元素に照射すると、照射を止めた後にも中性子のみならず陽電子、すなわち正電荷をもった電子が放出され続けるということを発見しました。


このような陽電子の放出は天然に存在する放射性元素の崩壊過程においても観察されていましたが、放射性元素が人工的に作り出されたわけです。最初に作り出された人工放射線元素はボロンとアルミニウムの放射性同位元素でした。放射性ボロンからは放射性窒素が、放射性アルミニウムからは放射性燐が生成し、それぞれの元素は陽電子を放出しながら炭素と珪素に変化しました。この発見によって限りない研究の余地がある分野が新たに開拓されました。これと同時に、原子物理学における実践的研究の可能性が
大幅に拡大されました。


それまで、天然の放射性元素から得られる粒子が放射能を人工的に惹起するための唯一の手段だったのですが、ヴァン・デ・グラーフ発生装置とサイクロトロンも並んで使用されるようになりました。より集中的な放射線照射が行われるようになり、さらに多様な反応を起こすことが可能になりました。


しかしながら、放射線照射にしばらくの間、用いられていたのはラジウムベリリウムでした。この二つの物質はこの先進展していく研究、特に新たに発見された人工放射線の研究に利用するためには十分な中性子源とはいえなかったでしょうが、組み合わせて使用するのが容易でした。このような中性子源は乾燥した粉末状のラジウム塩とやはり粉末化したベリリウムを混ぜ合わせた混合物を金属製の密封容器に入れることによって得られました。ウラニウムそのものは、ラジウムを得られることができるという理由だけで重要視されました。
中性子が核反応を引き起こすための恰好の手段となるということを発見したのはイタリア人科学者のフェルミでした。フェルミは共同研究者たちと共に元素の周期律表に含まれているあらゆる可能な限りの元素に対して中性子線を照射し、複数の元素を人工放射性元素に変えることに成功しました。


一般的に言って、中性子を照射速度を落として照射した場合(注1)には中性子原子核に吸収されます。従って、多くの場合には不安定な放射性同位元素が生成され。それらはベータ線を放ちながら周期律表で一つ上に位置する元素に変化します。ベータ線を放つ元素の変化は自然界に存在する概ね安定した化学元素においても生じます。つまり、フェルミと共同研究者たちはこの実験を周期律表の最後のウラニウムまで行ったのです。その結果、彼らは中性子によって元素の変化が引き起こされることを発見しました。その中には一瞬にして完了する変化もありました。中性子照射によってウラニウムの短命な放射性同位元素が生成されること、そしてその放射性同位元素が他元素に変化して消滅する際にベータ線を放つことから、自然界での例と同じく、周期律表でウラニウムよりも上位に位置する、原子番号九十三番の放射性元素が人工的に作り出された、そして九十四番以降の元素も同様にして作り出すことができるのではないかとフェルミらは考えました。

 

(注1)フェルミが当初に示したとおり、発生した中性子線を水素原子を多く含む物質で遮ることによってその中性子の速度とエネルギー・レベルを低下させることができます。中性子が持つ力学的なエネルギーが水素原子への弾力的な接触によって水素原子に移行するわけです。


フェルミのこの主張は広く承認されたわけではありませんでした。例えば、フェルミの方法で生成され、十三分の寿命しかないことが確認された元素は原子番号九十一番のプロタクティウムであるという可能性を否定することができませんでした(注2)。

 

(注2)イダ・ノダックは別の観点から、異論を唱えました。つまり、原子番号九十三番の元素が生成されたと結論づける前に未知の物質が周期律表に記載されている元素のどれかであるという可能性を疑うべきだと主張しました。しかし、この主張は物理学の常識からはずれていたため、真剣に顧みられることはありませんでした。


(プロメテウス達よ 〜 原子力開発の物語 「エピローグに替えて 3/7  に続く)

 

【参考】

チャドウィック (ウィキペディア)

フェルミ (ウィキペディア)

イダ・ノダック (ウィキペディア)

ジョリオ=キューリー夫妻 (1900年 - 1958年)(1897年 - 1956年) (ウィキペディア

陽電子 (ウィキペディア)

重水素 または  デューテリウム (ウィキペディア)

中性子 (ウィキペディア)

同位元素 または アイソトープ (ウィキペディア)

三重水素 または トリチウム (ウィキペディア)

アルファ線またはアルファ粒子 (ウィキペディア)

ベータ線またはベータ粒子 (ウィキペディア)

ガンマ線 (ウィキペディア)

 

ノーベル賞財団のサイトに掲載されているオリジナル(英文)

 

作品の目次

 

作品の大トリにオットー・ハーンを選んだ理由

オットー・ハーン (ウィキペディア)

『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 エプシロン作戦

Operation Epsilon (Wikipedia)

 

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さらにキンドルは数百冊以上の書籍を入れることができ、重量は文庫本並みです。アマゾンはお任せ出版社なので内容や誤字脱字などには自分で責任を持たないといけませんが精一杯努力する所存です。(予想価格:700円 要キンドル)

 

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【『プロメテウス達よ』エピローグに代えて

「天然ウラニウム崩壊の発見から人工核分裂まで」1/7
オットー・ハーン
一九四六年十二月十三日
ノーベル賞受賞記念講演


(注:この講演の版権はノーベル財団にあり、原文を翻訳するに当たり同財団からの許可はいただいておらず、また英文からの翻訳の正確性を保証するものではありません。ご関心を持たれた方は是非ノーベル賞財団のサイト(英文)を参考としてご覧ください。)


一九四六年は元素発見の歴史において記念すべき年です。五十年前、一八九六年の春にアンリ・ベクレル放射能を持つ特筆すべき元素を発見しましたが、その時においては全ての放射線が同一であるとみなされていました。


一七八九年にクラプロートによってウラニウムが発見されて後、百年以上もの間、ウラニウムは希少な元素であるというだけで特に関心を呼び起こしはしませんでしたが、メンデレエフとロター・メイヤーによって周期律表が考案されてから、ウラニウムはある一つの理由によって他の全ての元素とは異なると考えられるようになりました。その特性とは、ウラニウムが周期律表の最後に位置付けられているということでした。しかしながら、そのことにさえも大した意味があるとは考えられませんでした。今日、私たちはウラニウムが周期律表の最後に位置付けられているというからこそ、他の元素とは異なる特別な性質を持っているということを知っています。


ベクレルが周期律表の最後に位置付けられているウラニウムが持つ放射能に気付いた後も、ウラニウムの基本的性格は科学者の間においてもあまり関心を引くことはありませんでした。しかしながら、二年後、キューリー夫妻がウラン鉱からポロニウムラジウムという二つの元素を分離することに成功した時からベクレルの発見は特別な意味を持つものとなりました。発見された二つの元素のうちの一つであるラジウムには同量のウラニウムの数百万倍の強さの放射能があったのです。


ラジウムが持つ驚くべき性質は発見後間もなく説明されるようになりました。放射性元素はある一定のきまりに従って、アルファ線、あるいはベーター線を発しながら化学的、物理的性格が全く異なる別の元素に変っていくのです。アルファ線の性格はラザフォードによって明らかにされましたが、プラスの電荷を帯び、ヘリウムの原子核と同じとみなされます。ベーター線はマイナスの電荷をもち、粒子としては電子と同じ性格を持っています。


一九○二年にラザフォードとソディーが提唱した原子崩壊の仮説を承認するならば、元素が不可分であるというそれまでの考え方は棄却されなければなりませんでした。放射線を伴うウラニウム原子が崩壊してポロニウムなどの放射性物質を経てラジウムに変化していく過程について研究が行われましたが、それと平行して、当時においては周期律表で最後から二番目に位置していたトリウムに関する研究も進められました。トリウムが変化した後にはラジオトリウム、メソトリウムトリウムXなどの強力な放射性物質が生じます。原子崩壊に伴ってアクチニウム系列と呼ばれる一群の元素も生じますが、第三番目に発見されたこれら一群の元素も元々はウラニウムを元祖とするのです。


一九一一年、ラザフォードは素粒子が物質を覆う薄膜を透過する様を組織的に研究することによって原子の化学的性質を説明するモデルを提唱しました。このモデルは元素の原子は、原子の質量を決定するプラスの電荷を持つ核とその周りを核の大きさに比べて非常に離れた距離で巡るマイナスの電荷を持つ電子からなっていると説明します。原子の核のプラスの電荷の値が周期律表上に並べられた元素の順番と完全に一致するのです。ある元素が放射線を放ちながら(他の元素へと)崩壊していく過程は通常の物理的、あるいは化学的な作用によって影響されることのない原子核の変化なのです。


元素が放射線を放ちながら崩壊するという自然の法則に確信を持ったわたしたちはこの崩壊過程を時間の基礎とするいわゆる「地質学的時計」を考案しました。実際、このように変化するウラニウムは多数の元素を経た後、最終的には安定した鉛になります。したがって、ウラニウム放射線放出と共に崩壊してできた鉛の量を計測することによって鉱物の年齢や精製される前の鉱物がもともと含まれていた地層の年齢を計測することができます。トリウムの変化によって最終的に生成される鉛はウラニウムが変化して生じる鉛とは別の種類ですが、トリウムでも同じことが可能です。研究は一層進み、放射線物質の粒子は原子物理学に各種の問題を解決する糸口となりました。


ラザフォードの原子核モデルに引き続いて、放射線はヘリウム原子核と同一であるということが確認されました。ヘリウム原子核の質量数は4であり、質量数が1である陽子の千八百分の一の重さしかない電子と比べると、比較的重い粒子です。そして、毎秒千五百キロメーターにも上 る速度で照射されるため、原子核に対して弾丸を浴びせるかのごとく作用することができます。他の方法では原子核に働きかけることはできません。そして、次の段階に至る極めて重要な発見をし たのも、天才であるラザフォードでした。ラザフォードは一九一九年にラジウムから放出される放射線、すなわちヘリウム原子核を窒素原子に照射した場合、そのヘリウム原子核が窒素の原子核に吸収され、水素原子核、すなわち陽子と共に新しい原子核を生成するということを実証しました。この過程は式に現すことができます。この式において、元素記号の下にある数字は原子核電荷を表し、上にある数字は質量数(原子量)を表します。残りのエネルギーは放出された陽子の運動に費やされ、陽子が原子核から放出されたものであることを示します。


ここに、人類初の人工的な元素の転換が実現しました。あるいは元素が転換したのではなく、原子が組み合わさったと言ってもいいでしょう。この場合、質量数が十四で原子番号が七の窒素の原子から質量数が十七で原子番号が八の酸素が作り出されたわけです。続く数年間の間に同様の原子の転換方法が発見されましたが、照射される粒子が正の電荷を帯びていたため、原子核がかなりの強さの陽電気を帯びている質量数の大きな原子では、照射される粒子と原子核とが反発しあい、質量数の大きな原子においては何らかの結果を引き出すには至りませんでした。


(プロメテウス達よ 〜 原子力開発の物語 「エピローグに替えて 2/7 に続く)

 

【参考】

アンリ・ベクレル (ウィキペディア)

メンデレエフ (ウィキペディア)

ラザフォード (ウィキペディア)

 

周期表(周期率表) (ウィキペディア)

放射線 (ウィキペディア)

原子番号 (ウィキペディア)

質量数 (ウィキペディア)

原子量 (ウィキペディア)、(注) 天然に存在する質量数が異なったり放射能があったり無かったりする化学的には同一の性格を持ついわゆる同位体元素についてであるのでかなり複雑な記述です。

水素原子 (ウィキペディア

ヘリウム原子 (ウィキペディア)

アクチニウム系列 (ウィキペディアアクチニウム原子番号89の元素

トリウム系列 (ウィキペディア)トリウムは原子番号90の元素

 

作品の目次

 

作品の大トリにオットー・ハーンを選んだ理由

 

オットー・ハーン (ウィキペディア)

『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 エプシロン作戦

Operation Epsilon (Wikipedia)

 

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プロメテウス達よ 〜 エピローグに代えて

エピローグの前書き (ウェブ限定)

作品の目次

 

本作品の目次を既にご覧になった方ならご存じでしょうが、当初筆者であるわたしは本ウェブ版の「プロメテウス達よ」は第六章の「冷戦」で完結させるつもりでした。その理由は、わたしが知る限り、この段階(原子力発電開始と原子爆弾製造)に至るまでに活躍したプロメテウス(科学者)達がアインシュタイン原子爆弾の開発可能性を説くためにアメリカ大統領宛の書簡に署名することを薦めたユダヤ人亡命科学者らの一人で後に水爆の父と呼ばれたエドワード・テラー(2003 年没)以外全て冷戦の終結を見ずに生涯を終えたからです。しかしながら、わたしは既に第一章の中心人物を連合国、つまり勝ち組の科学者ではなく日本と同じ側に組したドイツのハイゼンベルクに定めて書き始めました。わたしとしては第六章で欧米の科学者の間で人気と人望があった日本人ノーベル賞受賞者湯川秀樹博士にいかに言及したところでいま一人負け組側の顕著な活躍をしたプロメテウスに登場してもらわないとこの物語の全体を締めくくれない思いがあります。ということで、最終章である第六章「冷戦」を締めくくる逸話は第一章「プロメテウスの揺籃の地」の中心人物だったハイゼンベルクとその師だったニールス・ボーアとの師弟愛の結末だったのですが、もうひと頑張りした内容の「エピローグに代えて」で描かれる、と言おうか独壇場に登壇する、俗に言う「トリを取る」のは広島・長崎に原子爆弾が投下されたことを原子力開発に功績があった科学者達の一員であり、そしてその中で誰よりも悲しんで自らを自殺の瀬戸際にまで追い込んだドイツ人化学者のオットー・ハーンです。

 

本作品の主題は人間の強さと弱さです。イタリア人とドイツ人の物理学者、同じ年に生まれて共にゲッチンゲン大学で学んで共に三十歳台でノーベル賞受賞者となったエンリコ・フェルミヴェルナー・ハイゼンベルクのうち共に実現を目指した原子力発電を、自由の国アメリカに移住したフェルミは達成し、独裁者が君臨する国家で研究を続けたハイゼンベルクは達成することが出来なかったのはフェルミ原子力が平和と繁栄の目的にのみ使用されることを信じ、一方のハイゼンベルク独裁国家において科学的心理を追求する自分の真摯な努力がナチスドイツに悪用されるのではないかという一抹の懸念を拭いきれなかったからではないでしょうか? そして物理学者ではなく化学者だったドイツ人のオットー・ハーンにとって中性子線照射後に原子核の組成を変えたらしい放射性物質の解析結果はリーゼ・マイトナーによる理論的説明を経て、正に敵側に利用されて広島と長崎の数万人の無辜の市民の殺戮に繋がってしまったのである。もちろん、広島と長崎における市民の殺戮を嘆いた科学者は連合国側にも多数存在したことは想像に難くありません。しかし連合国側のプロメテウス達は国家の承認と財政的な後押しを受け、亡命ユダヤ人達や物理学会の大御所たるニールス・ボーアらの悲憤慷慨を見聞きし、ドイツに留まるハイゼンベルクの複数の朋友達からハイゼンベルクの人となりや彼の愛国心に聞かされ、ナチスドイツのイギリスへの攻撃とアメリカの敵視に怯え、いわば原子爆弾製造に駆り立てられたせいでウラニウム235の97%超が前述235と化学的同一のウラニウム238が占める天然ウラニウムからの分離という途方もない難関を突破することによって原子爆弾が出来上がってしまったのである。ここに人間としての科学者の弱さと強さがある。これに加えて人類に新しい火をもたらした連合国側のプロメテウス達は戦争終結後、戦争終結に大きな役割を果たしたとして一般大衆からの絶大な賞賛があった。彼ら連合国側プロメテウス達は「広島と長崎以外で原子爆弾による死傷者が無いように。」という想いはあったでしょう、純粋な知的欲求から生じた結果を利用されてしまったオットー・ハーンの悲しみは彼ら連合国側の科学者の比ではなかったはずです。すなわちオットー・ハーンは広島・長崎で無辜の市民が命を落としたことを悲しんでくれたほとんど唯一のプロメテウスでした。

 

ここまでわたしは科学者(=プロメテウス)達の弱さについて連綿と述べてきましたが、では彼らの強さはというと、それは言うまでもなく彼らの頭脳です。頭脳こそがわたし達人類を地球上の他生物の追従を許さずわたし達人類を他生物とは一線を画する不動の地位に留めているのである。この点についてはこれ以上言葉を弄する必要はないでしょう。 ただ一つ付け加えたいのは原子爆弾の極秘裏の開発拠点だったロス・アラモスに集った科学者や技術者らは妻子の帯同を強く促され、妻が結核療養中だったリチャード・ファインマン(1965年に朝永振一郎ジュリアン・シュウィンガーと共にノーベル物理学賞を受賞)は妻の療養所をロス・アラモスのメサ(台地)の麓に移し、科学者・技術者に帯同した妻達で元々職があった者は離職を余儀なくされたがものの、彼女らのうちで大学教育を受けた者はにわか作りの小中学校で教師を務め、その他の妻達にもそれぞれの経歴に応じて役割が与えられ、連邦政府から潤沢な予算を与えられていたロス・アラモスのコミュニティは人的にも自給自足かそれ以上に充足していたということです。

 

門外漢のわたしがオットー・ハーンノーベル賞受賞講演を日本語に翻訳するのには大変な困難が伴いましたが、いかに稚拙な邦訳であってもプロメテウス達とはこのような人種であったのかという参考には資すると思われるので、ノーベル賞選考委員会の許可等々の万難を顧みず、お恥ずかしい限りではありますが掲載することにいたします。

 

(プロメテウス達よ 〜 原子力開発の物語 「エピローグに替えて」 1/7 に続く)

 

オットー・ハーン (ウィキペディア)


『プロメテウス達よ』第6章 冷戦 〜 エプシロン作戦

Operation Epsilon (Wikipedia)

 

ノーベル賞財団のサイトに掲載されているオリジナル(英文)  同講演の上記記録の11ページから13ページには同位体を系統的に整理した表が掲載されているので化学の知識が多少なりともある方には是非閲覧をお勧めします。

 

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プロメテウス達よ 〜 ここからどこへ?

作品目次   

 

編集が済み次第、アマゾンから電子出版します。出来れば今年中に本ブログで発表した本作品ともう一つの作品の発表を完了したいと思います。わたしがこの二作品の全文を公開した意図の根底にはある強いこだわりがあります。それは英米を中心として始まった Project Gutenberg と呼ばれる著作権消滅作品の電子化プロジェクトへの強い関心と支援の気持ちです。

 

折しも、自民党総裁が交代し、閣僚、特にレジ袋有料化を始めた例の大臣が退任し、環境への貢献は微細かほとんどないと思われるレジ袋政策そのものはしばらく続くと思われますが、読書文化を大切にし、国土の大半を森林が占めているわたしたち日本人には石油の余りや石油製品の屑を節約するよりももっと重要な使命があります。それは電子書籍を一般化し、著者と読者の対話を進めて改訂を容易にし、既に作品を購入した読者が改訂電子版を容易かつ無料で入手できるようにすることだとわたしは固く信じています。もちろんこれは従来の紙に印刷された本の存在を否定するものではありません。それどころか優れた書籍が全国津々浦々の図書館で愛読されることが益々盛んになるようわたしは願っています。

 

 

書籍はマーケティングが非常に難しい商品です。そして一つ一つの作品が著者の存命中に著者とともに成長し、進化していくことが必要だと思うのです。そしてそれを容易にするのはもちろん電子化です。単なる森林資源の節約を超える恩恵を Project Gutennberg (日本版: 青空文庫)はもたらしてくれたと思いますが、一人一人の著述家がもうひと頑張りして著作権保護やより良い電子書籍リーダーの開発に働きかけていくことで著作権フリーの書籍の電子化はかつてドイツ人の職人のグーテンベルクが達成した印刷術の発明に匹敵する人類の大きな飛躍を達成できるともわたしは信じています。

 

二作品の電子出版を完了した後にこのブログをどうするかですが、もちろん残します。ブログと電子書籍の違いは明らかです。当然のことながら電子書籍の方が読みやすいです。一方でブログは改訂しやすくコメント欄を使った双方向性もあります。また、ブログはインターネットに常時接続しているので作品に書ききれなかった内容を深く説明しているサイトに読者を誘導することも容易です。まあ、いろんな面での二つのメディアの可能性を探っていくこともわたしの使命であるとも心得ています。

 

さて、この作品「プロメテウス達よ 〜 原子力開発の物語」には「前書き」と「エピローグに替えて」など電子書籍には含まれることになる内容が現時点では含まれていません。これらの内容はこのブログでは公開しないつもりでしたが目下わたしのその決定は揺らいでいます。気が変わりつつある理由の一つは「前書き」と「エピローグに替えて」を本ブログで割愛して有料で配布する電子書籍に添えてみてもそれが読者の皆様の「この2つの内容を是非見たい!」という購買のインセンティブにはならないからです😅。それに関してはこれから掲載するこれらの内容を読んでいただければ明白になりますが、それにも増してこれから政治の季節に入っていく日本に於いて原子力発電と再生可能エネルギーにまつわる未来の可能性をできる限り理解するためには原子力が利用されるに至った経緯を理解することが一助となり得るのではないか、世界一の人口と世界第二のGDPを持つ中国の脅威に晒されている日本と多くの価値観を共有する台湾がどうやら核兵器なしにヤマアラシ作戦という悲壮な覚悟で他国の援助が有っても無くても自らの独立を保とうとしている今現在において核の抑止力とは何なのかを真剣に考えるべきではないか、などということをつらつら考えた際に別の論点や読者に伝えるべきことがあるのではないかとここ数日考えあぐねて未だ結論が出ていないのです。まあ考えて埒があかない時にはひたすら手を動かすことも役立つのかもしれないということでブログ執筆(実際にはUSBメモリー)の中の本作品のコピペ継続)を再開します。

 

下の画像は作りかけの本作品電子版の表紙です。出版社はお任せ出版社のアマゾン(Amazon International Services)です。ということは今のところアマゾン専用の電子ブックリーダーのキンドルのみで講読が可能だということです。こちらはそれほど高額ではありませんが有料となります。キンドル版には次のような優れた点があります。

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川本真理子

 

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プロメテウス達よ (付記 - 参考文献)

参考文献 (アルファベット順)  作品の目次

 

文献一覧(著者名アルファベット順)
Bird, Kay, Sherwin, Martin “American Prometheus, The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer”
Cassidy, David C. “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg”
Compton, Arthur H. “Atomic Quest”
Cornwell, John “Hitler’s Scientist”
de Latil, Pierre “Enrico Fermi”
Fermi, Laura “Atoms in the Family”
Frayn, Michael “Copenhagen(Play)”
Frayn, Michael/Burke, David “The Copenhagen Papers
Goodchild, Peter “Oppenheimer,Shatter of Worlds”
Goudsmit, Samuel A. “Alsos”
Herken, Cregg “Brotherhood of the Bomb”
Hersey, John “Hiroshima”
Jungk, Robert “Brighter than a Thousand Suns”
Michio, Kaku, “Einstein’s Cosmos”
O’Keefe, Bernard J. “Nuclear Hostages”
Operation Epsilon – The Farm Hall Transcript”
Powers, Thomas “Heisenberg’s War”
Quinn, Suzan “Marie Curie”
Reid, Robert “Marie Curie, the woman”
Rose, Paul Lawrence “Heisenberg and the Nazi Atomic Bomb Project”
Schoenberger, Alter Smith “Decision of Destiny”

Segrè, Emilio “Enrico Fermi”
Van De Mark, Brian “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb”
石井茂「ハイゼンベルクの顕微鏡」日経 BP
著者が明確でないか多くの著者が存在する文献
Atlantic Monthly (December 1946)
Life Sicence Library “Matter” (邦訳「物質」)
Manhattan Engineer District “A-bomb of Hiroshima and Nagasaki”
Wikipedia、マイペディアなど

 

プロメテウス達よ (付記 - 科学者の名簿)

プロメテウスの名簿(五十音順 科学者のみ)本文中のリンク先はウィキペディアです。   作品の目次

 

アインシュタイン、アルバート (1879 - 1955) 国籍:ドイツ→スイス→オーストリア→ドイツ→アメリカ。1912年に特殊相対性理論を発表。1921 年に光電効果によって単独でノーベル物理学賞を受賞し、記念講演で相対性理論を説明する。相対性理論は核エネルギーの存在に理論的根拠を与えた。


アルヴァレス、 ルイス (1911 - 1988) 国籍:アメリカ。1968 年に素粒子物理学への貢献によってノーベル物理学賞を受賞。広島・長崎に原爆を投下した戦闘機に従う飛行機にマンハッタン計画に参加した科学者を代表して搭乗した。


ウィグナー、ユージン(1902 - 1995) 国籍:ハンガリーアメリカ。1963 年に原子核理論および素粒子論への功績によってマリア・ゲッパート・メイヤー、ヨハネス・ハンス・イェンセンと共にノーベル物理学賞を受賞。レオ・シラード、エドワード・テラーと共にアインシュタインに働きかけて原子力開発をアメリカ大統領に要請する手紙をまとめた。マンハッタン計画では増殖炉の開発を担当した。


エディントン、アーサー (1882 - 1944) 国籍:イギリス。クェーカー教徒で平和主義者の天文学者・物理学者。アインシュタイン一般相対性理論ニュートン力学からの乖離によって証明するために大西洋で日食を観測した。


オッペンハイマー、ジュリアス・ロバート (1904 - 1967) 国籍:アメリカ。マンハッタン計画の科学者・技術者の頂点に立った。マンハッタン計画において四人の構成員からなる科学者の最高意思決定機関、科学者小委員会の構成員でもある。


キューリー、イレーヌジョリオ=キューリー、 イレーヌ

キューリー、 マリー (1867 - 1934) 国籍:ポーランド→フランス。1903 年に放射現象研究の功績によってアンリ・ベクレルと夫ピエール・キューリーと共にノーベル物理学賞を受賞。1911 年にはラジうムの化学的性質を明らかにした功績によってノーベル化学賞を単独受賞。


キューリー、ピエール (1959 - 1906) 国籍:フランス。1903 年に放射現象研究の功績の功績によってアンリ・ベクレルと妻マリー・キューリーと共にノーベル物理学賞を受賞。

ゴードスミット(オランダ語 = ハウシュミット)、サミュエル (1902 - 1978) 国籍:オランダ→アメリカ。マンハッタン計画の一環として行われた、ドイツおよびナチス・ドイツ支配下にあった地域における原子力開発状況を調査するアルソス・ミッションで科学者としての最高責任者の地位に就いた。ナチス・ドイツによるユダヤ人弾圧の開始以前にアメリカに移住し、多くの科学者をアメリカに招い
た。

コンプトン、 アーサー (1892 - 1962) 国籍:アメリカ、1927 年にコンプトン効果の発見および解析によってノーベル物理学賞を受賞。その後シカゴ大学宇宙線の研究に携わったが、一九四一年の始めに「原子力開発に携わったことがなく、かつ説明を聞けば内容を容易に理解できる。」という条件を満たす科学者としてアメリカ各地で行われていた原子力関連の研究をまとめるようヴァネヴァー・ブッシュを委員長とする国防研究委員会から要請を受けた。マンハッタン計画の進行中はシカゴ大学原子力関連の基礎研究を指揮した。同計画において四人の構成員からなる科学者の最高意思決定機関、科学者小委員会の構成員でもある。

 

シーボーグ、 グレン (1912 - 1999) 国籍:アメリカ。プルトニウムを始めとする超ウラン人造元素生成の功績によってエドウィン・マクミランと共に 1951 年にノーベル化学賞を受賞。


シュレジンガー、エルヴィン (1887 - 1961) 国籍:オーストリアアイルランド。1933 年に原子理論を新しい観点から纏め上げた功績によってポール・ディラックと共にノーベル物理学賞を受賞。


ジョリオ、 フレデリックジョリオ=キューリー、フレデリック

ジョリオ=キューリー、 イレーヌ (1897 - 1956) 国籍:フランス、ピエール・キューリーマリーキューリーの長女。1935 年人工放射線元素の発見によって夫フレデリック・ジョリオと共にノーベル化学賞を受賞。


ジョリオ=キューリー、 フレデリック (1900 - 1958) 国籍:フランス、1935 年人工放射線元素の発見によって妻イレーヌ・キューリーと共にノーベル化学賞を受賞。ナチス・ドイツの侵攻によって苦汁をなめ、共産党に入党した。


シラード、 レオ (1898 - 1954) 国籍:オーストリアハンガリーアメリカ。ベルリン大学のマックス・フォン・ラウエの元で熱力学を研究し冷凍設備などの基礎となる特許を取得する。後イギリスを経てアメリカに移住する。原子力開発の可能性をいち早く察知し、数人の亡命ユダヤ人科学者と共にアインシュタインを動かしてアメリカ大統領に宛てた原子力開発推進の助成を要請する書簡を作成する(アインシュタインが署名)。日本への原子爆弾投下後は核兵器拡散の防止や米ソ間のホットラインの開設などに奔走した。


セグレ、 エミリオ (1905 - 1989) 国籍:イタリア→アメリカ。ユダヤ人物理学者。ローマ大学エンリコ・フェルミに師事し、パレルモ大学の教員となるがアメリカ訪問中に母国でユダヤ人対策が強化されて大学教員の地位を失ったため、帰国を断念してアメリカに帰化した。1959 年、反陽子発見の功績によってオーウェンチェンバレンと共にノーベル物理学賞を受賞。


チャドウィック、 ジェームズ (1891 - 1974) 国籍:イギリス。1935 年に中性子発見の功績によってノーベル物理学賞を受賞。第二次世界大戦中。イギリスにおける原子力開発の事実上の最高責任者。デンマークから亡命してきたニールス・ボーアに対して聞き取りを行い、またアメリカのマンハッタン計画に同行したりした。


ディラック、 ポール (1902 - 1084) 国籍:イギリス。1933 年に原子理論を新しい観点から纏め上げた功績によってエルヴィン・シュレジンガーと共にノーベル物理学賞を受賞。


デバイ、 ペーター (1884 - 1966) 国籍:オランダ→アメリカ。1936 年には双極子モーメント、X 線および電子線による分子構造の解明によってノーベル化学賞を単独受賞。ナチス・ドイツが政権を掌握した際にオランダ国籍であるにもかかわらずベルリンの国立カイザー・ウィルヘルム研究所の所長を勤めていたがドイツ国籍取得を迫られたためにアメリカに亡命。後のマンハッタン計画の中核となる人物らにナチス・ドイツ政権したのカイザー・ウィルヘルム研究所の人事や予算の情報を与え、彼らに間接的に原子力開発の推進を促した。


テラー、エドワード (1908 - 2003) 国籍:ハンガリーアメリカ。ユダヤ系の物理学者。レオ・シラードユージン・ウィグナーらと共にアインシュタインに働きかけて原子力開発をアメリカ大統領に要請する手紙をまとめた。オッペンハイマーとは文学・芸術を共に愛好する友人同士だったが、マンハッタン計画においては科学者を統括したオッペンハイマーとの仲は必ずしも良好ではなく、戦後の冷戦下ではオッペンハイマーに不利になる証言をして他大多数の科学者の反感を買った。「水爆の父」とも呼ばれる。ロナルド・レーガンの政権下でSDI(Strategic Defensive Initiative)の技術顧問となった。変ったところではスタンリー・キューブリック監督の映画作品「博士の異常な愛(Dr. Strangelove)」の主人公のモデルとされる。

【映画ルーム(160) 博士の異常な愛情 〜 古色蒼然の恐怖戯画… 6点】

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ド・ブロイ、プランス・ルイ (1892 - 1087) 国籍:フランス。1929 年に電子の波動的特性を総括した功績によってノーベル物理学賞を受賞。

 

仁科芳雄 (1890 - 1951) 国籍:日本。ニールス・ボーアに師事し、ボーアの門下の物理学者と親交があった。広島に投下された新型の爆弾を原子爆弾であると認定した。


ハーン、 オットー (1879 - 1968) 国籍:ドイツ。1944 年に核分裂の確認の功績によって単独でノーベル化学賞を受賞。ドイツ敗戦後、いわゆる「エプシロン計画」によってヴェルナー・ハインベルクやマックス・フォン・ラウエらを含む他九人の科学者らと共に半年間イギリスに抑留される。

ハイゼンベルク、ヴェルナー (1901 - 1976) 国籍:ドイツ。1932 年、量子力学の発展への功績によってノーベル物理学賞を受賞。ナチス・ドイツの下でベルリンにある国立研究所の所長とライプツィヒ大学の教授を兼任した。ドイツ敗戦後、いわゆる「エプシロン計画」によってオットー・ハーンやマックス・フォン・ラウエら他九人の科学者らと共に半年間イギリスに抑留される。


パウリ、ヴォルブガング (1900 - 1958) 国籍:スイス。1945 年にパウリ原理と呼ばれる排他律を発見した功績によってノーベル物理学賞を受賞。


フェルミ、エンリコ (1901-1954) 国籍:イタリア→アメリカ、1938 年に中性子線放射によって新放射線元素の存在を証明した功績によってノーベル物理学賞を受賞。一九四二年に核分裂の連鎖反応を惹起することに成功。マンハッタン計画において四人からなる科学者の最高諮問機関、科学者小委員会の構成員のうちで唯一の外国出身者だった。マンハッタン計画の関係者の間でしばしば「水先案内人(パイロット)」または「提督(アドミラル)」と呼ばれる。


フォン・ラウエ、マックス (1879 - 1960) 国籍:ドイツ、1914 年にX線解析による結晶分子構造の解明の功績によってノーベル物理学賞を受賞。アインシュタインとは彼が学会に認められていなかった頃からの友人でナチス・ドイツ下で英米の多数の大学に招聘されたものの「限られた教授の席をユダヤ人科学者に譲るため」と公然と宣言し、ナチスに対する抗議のためベルリン大学の教授職を辞しながらもドイツに残った。ドイツ敗戦後、いわゆる「エプシロン計画」によってヴェルナー・ハインベルクやオットー・ハーンら他九人の科学者らと共に半年間イギリスに抑留される。


フランク、ジェームズ (1882 - 1964) 国籍:ドイツ→アメリカ。1925 年電子の動きに法則を見出した功績によってグスタフ・ヘルツと共にノーベル物理学賞を受賞。その後、フランクはナチス・ドイツを公然と批判してゲッチンゲン大学を辞してアメリカに渡り、当初はボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学マンハッタン計画が開始して後はシカゴ大学で研究を行った。ハロルド・ユーリーが指揮を執ったウラニウム235のガス分離法は彼の考案による。ドイツ降伏後に日本への原子爆弾の使用を核兵器拡散防止の観点から反対するいわゆる「フランク・レポート」をシカゴ大学で研究に従事していたレオ・シラードや生物学者のラビノヴィッチらの協力を得て起草するが、その先見の明とは裏腹にレポートは無視された。


プランク、マックス (1858 - 1947) 国籍:ドイツ。1918 年、エネルギー量子発見の功績によってノーベル物理学賞を受賞。量子力学の祖とされる。

 

フリッシュ、 オットー (1904 - 1979) 国籍:オーストリア→イギリス。1938 年暮に偶々休暇で滞在していた伯母のリーゼ・マイトナーの住居でドイツのオットー・ハーンが伯母宛に提出した解析結果に接し、伯母と共に核分裂によるエネルギー放出を説明し、その後当時所属していたコペンハーゲンの国際研究所所長であるニールス・ボーアに内容全体を報告した。この後、フリッシュはイギリスに移住し、イギリス人として原子力開発の基礎研究に携わることによってマンハッタン計画に参加し、核分裂の連鎖反応に必用ウラニウム同位体の臨界量を正確に予測するなどの功績を残した。


ベーテ、ハンス (1906 - 2005) 国籍:ドイツ→アメリカ。1967 年に原子核反応理論への貢献、特に恒星内部における原子核反応を解明した功績によってノーベル物理学賞を単独受賞。オッペンハイマーの信頼が厚く、マンハッタン計画においてロス・アラモスで理論部の部長を務めた。


ベクレル、 アンリ (1852 - 1908) 国籍:フランス。1903 年放射線発見の功績によってマリー・キューリーとピエール・キューリー夫妻と共にノーベル物理学賞を受賞。


ボーア、ニールス (1885 - 1962) 国籍:デンマーク、1922年、原子核構造を解明した功績によってノーベル物理学賞を単独受賞。デンマークの首都コペンハーゲンに国際的かつ学際的な研究所を創設し、多くの科学者を育てた。ユダヤ人であるのにもかかわらず、ナチス・ドイツ占領後のコペンハーゲンに一九四三年の夏まで留まった。一九四三年の夏に危険を冒してスエーデン経由でイギリスに渡った後、英米間を往復して両国で原子力開発に携わる科学者らの精神的支柱となった。


ボルン(英語 = ボーン、マックス (1882 - 1970) 国籍:ドイツ→イギリス。1954 年に波動関数の解釈に関わる功績によってヴァルター・ボーテと共同でノーベル物理学賞を受賞。ゲッチンゲン大学の教授だった頃からハイゼンベルクやパウリを含む多くの優秀な物理学者を育てた。ナチス・ドイツを嫌ってイギリスに移住した後も後進の育成に熱心だったが、平和主義者を自称して原子力開発を含む戦争への関与はあらかじめ拒否し、当局もマンハッタン計画への協力を彼に要請することはなかった。


マイトナー、 リーゼ (1878 - 1968) 国籍:オーストリア→ドイツ→スエーデン(オーストリアからドイツへの国籍変更はナチス・ドイツオーストリアを併合したことによる)。ユダヤ人女性物理学者。早くから極小の原子の世界を理解するためには物理学者と化学者の協力が欠かせないことを見抜き、ベルリンで研究していたオットー・ハーンを協力者に選んだ。ハーンとの三十年に渡る協力関係の最後の数年はナチス・ドイツに脅かされ、研究成果はハーンの名前だけを冠して発表し、生活費は心ある同僚科学者らが工面した。ナチス・ドイツによる母国オーストリア併合を機会に終にドイツを去り、オランダ、次いでスエーデンに逃れる。スエーデンに逃れた年の暮にハーンから受け取った解析結果を元に偶々訪れていた甥でニールス・ボーアの研究所の物理学研究員だったオットー・フリッシュと共に核分裂によるエネルギー放出を説明した。 


マクミラン、エドウィン (1907 - 1991) 国籍:アメリカ。1951 年に超ウラン人造元素生成の功績によってグレン・シーボーグと共にノーベル化学賞を受賞。

 

湯川秀樹 (旧姓:小川) (1907 - 1988) 国籍:日本。1949 年中間子の理論によって単独でノーベル物理学賞を受賞。


ユーリー、 ハロルド (1893 - 1981) 国籍:アメリカ、1934 年重水素発見の功績によって単独でノーベル化学賞を受賞。マンハッタン計画においては当初はコロンビア大学、後にテネシー州オークリッジにおいてジェームズ・フランクが提案したガス分離法によるウラニウム235の分離の総責任者となった。


ラザフォード、アーネスト (1871 - 1937) 国籍:ニュージーランド→イギリス→カナダ。1908 年に元素崩壊と放射性物質の化学的性質を明らかにした功績によって単独でノーベル化学賞を受賞。イギリスを拠点として多くの優秀な物理学者を育てた。


ラバイ、 イシドール (1898 - 1988) 国籍:オーストリアハンガリー(現在のポーランド)→アメリカ 1944年原子核の磁気的性質の測定によって単独でノーベル物理学賞を受賞。亡命ユダヤ人科学者のアメリカ定着に尽力した。


レントゲン (1845 -1923) 国籍:ドイツ、1901 年 X 線発見の功績によって単独でノーベル物理学賞を受賞。


ローレンス、 アーネスト (1901 - 1958) 国籍:アメリカ、1939 年サイクロトロン開発の功績によって単独でノーベル物理学賞を受賞。マンハッタン計画において四人の構成員からなる科学者の最高諮問機関、科学者小委員会の構成員である。

 

(注) 上の名簿には二人の日本人(仁科芳雄湯川秀樹)が含まれている。これは二人の学問業績の高さの故ではあるが、当然のことながら実際に二人がマンハッタン計画に代表される原子力開発に関わったわけではない。ただ、アメリカ政府が広島と長崎への原爆投下を急いだ理由が日本統治下の朝鮮半島(現在の北朝鮮)でウラニウム鉱山が発見された情報をアメリカ政府が得たからであるというものから日本統治下の領域で原爆実験が実施されたというかなり眉唾ものの情報までが存在し、さらにアメリカなどの協力があったにせよ、戦後日本の原子力発電の発展にはめざましいものがあり、上記二人を中心とする東京と京都の科学者チームの戦前・戦中における知識・技術の水準は相当のものだったと推測されるからである。

プロメテウス達よ (付記6)

第六章「冷戦」で活躍するプロメテウス達/第六章の参考文献  作品の目次  第六章 トップ

 

ヴェルナー・ハイゼンベルクマックス・フォン・ラウエオットー・ハーン、ウォルター・ゲルラハ、パウル・ハーテック、クルト・ディーブナー、カール・フリードリッヒ・フォン・ワイゼッカー、カール・ヴィルツ、 エーリッヒ・バッヘ、ホルスト・コーシング のうちマックス・フォン・ラウエを除く科学者たちはナチス・ドイツ下で原子力開発に携わっていたとみなされ、戦後しばらくの間、ドイツの原子力開発の水準に関わる情報を極秘のうちに聴取するいわゆる「エプシロン計画」のためにイギリスの片田舎にある豪邸に軟禁されて最高の客人としてもてなされた。マックス・フォン・ラウエはその人柄を買われて他九人の科学者らと抑留生活を共にさせられた。


八月十日にオッペンハイマー、コンプトン、フェルミ、ローレンスの四人から成る科学者者小委員会が開かれ、核兵器の脅威を訴えることで意見が一致し、九月の会合ではより具体的な方策が練られた。


ロバート・オッペンハイマーは配下の科学者や技術者をねぎらう言葉とはうらはらに政府関係者との心理的な溝を深め、原子力開発の職務を辞した後に平和主義者のアインシュタインが職を得ていて首都ワシントンにも近いプリンストン大学に就職したことや弟が共産主義者だったことも災いして冷戦下で反共産主義者などによる一斉放火を浴びた。ケネディー政権下で名誉は回復されたがオッペンハイマーは政府関係の職務は謝絶し、一九六七年に喉頭がんのために死去した。享年六十三歳。


アーサー・コンプトンは日本への原爆使用が終戦を早めたという考えを固持し、戦後に日本を訪問した際も日本人にその考えをつたえるための講演などを行ってある程度の成果を得た。コンプトンはシカゴ大学で終生、宇宙線の研究に携わった。一九六二年死去。享年七十歳。


レオ・シラードシカゴ大学を挙げて広島と長崎の犠牲者を追悼するべきだと主張したが受け入れられず、物理学から遠ざかった。一九五四年に心臓発作のために死去した。享年五十六歳。

 

ドイツ降伏から原子爆弾完成後に開かれた科学者小委員会でアーネスト・ローレンス原子爆弾の日本に対する限定使用を主張したが、広島・長崎への原子爆弾投下後はアーサー・コンプトンと同じく、戦争継続を阻止し、死傷者の数を最小化するために原子爆弾投下はやむおえなかったとした。冷戦下では東海岸に転居して政治に対して何らかの影響を行使しようとしているオッペンハイマーに対する反感と彼に対する往年との友情との板ばさみに悩んだ。またローレンスはオッペンハイマーとは異なり、水素爆弾に賛成の立場を取った。ローレンスは一九五八年に消化管潰瘍など多臓器からの出血多量で死去した。享年五十七歳。


エンリコ・フェルミは表面的には原子爆弾の使用に心を動かされないようだったが、シカゴ大学に戻ってから科学教育に一層力を注ぐようになった。一九五四年に胃がんのため死去する。享年五十三歳。


ニールス・ボーアはイギリスからデンマークに帰国する準備に追われている際に広島への原子爆弾投下の知らせを聞き、間髪を居れずに平和に対する意見を新聞に発表し、以後も国連などの場で平和の必要性を説き、一九六二年に死去。享年七十三歳。


ニールス・ボーアの教え子であるヴェルナー・ハイゼンベルクは不確定性理論を確立した功績によって讃えられながらもマンハッタン計画に参加した科学者らと戦後になって心を開いて語り合うことは決してなく、恩師であるニールス・ボーアとの暖かい師弟関係を取り戻すこともなかった。一九四九年にハイゼンベルクが戦後初めてアメリカを訪れた際にはアメリカの科学者の中にはハイゼンベルクと握手をするすることさえ拒んだ者がいたという。ハイゼンベルクは一九七六年に死去した。享年七十五歳。


アインシュタインは日本への原子爆弾使用を生涯に渡って嘆いた。彼は一九五五年の始めに七十六歳で亡くなったが死の直前、日本の湯川秀樹やイギリス人哲学者でノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセルなど、世界的に名高い各界の知識人十一人に核兵器の廃絶と世界政府の構想を託し(ラッセル=アインシュタイン宣言)、その遺志はパグウォッシュ国際会議という世界政府樹立と平和を構想するための知識人の国際会議という形で実現されている。

 

戦後になってフレデリック・ジョリオナチス・ドイツの占領下のパリで共産党に入党したという衝撃の告白を行い、その結果フランス原子力委員会の会長座を追われ、以後平和運動と科学教育に専念した。1956年に妻イレーヌが死去した後、イレーヌのパリ大学教授の座を引き継ぐが二年後にイレーヌの後を追うように死去した。享年58歳。


エドワード・テラーは祖国ハンガリー共産主義圏内に入ったことでソビエト連邦を憎み、原子爆弾を超える核兵器水素爆弾)の開発を意図するようになり、同志だったレオ・シラードらと袂を分かった。


エンリコ・フェルミアメリカに呼び寄せてマンハッタン計画の先駆けとなる研究を行わせたニューヨークのコロンビア大学は戦後、日本から湯川秀樹客員教授に招き、湯川は一九四九年にニューヨークで日本人として初のノーベル賞受賞(物理学、単独)の知らせを受けた。

 

参考文献

lxxxv[1] Michael Frayn/David Burke “The Copenhagen Papers” 
lxxxvi[2] Michael Frayn/David Burke “The Copenhagen Papers” 
lxxxvii[3] John Cornwell “Hitler’s Scientist” 
lxxxviii[4] スペクトログラフ、ウラニウム235を分離する方法の一つ。
lxxxix[5] 表現に多少の変更を加えたが、会話文と声明文はすべて“Operation Epsilon – The Farm Hall Transcript”による。
xc[6] Samuel A. Goudsmit “Alsos” 
xci[7] Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns” 
xcii[8] フォン・ラウエの人柄に関しては Robert Jungk “Brighter than a Thousand Suns”、 Michio Kaku “Einstein’s Cosmos”、Samuel A. Goudsmit “Alsos”などの記述を総合した。
xciii[9] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xciv[10] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xcv[11] Emilio Segrè “Enrico Fermi” 
xcvi[12] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xcvii[13] Thomas Powers “Heisenberg’s War” 
xcviii[14] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
xcix[15] Life Science Library “Matter” 
c[16] オッペンハイマーの友人で思想的に大きな影響を与えた Chevalier による。ただし、直接の引用は Brian Van De Mark “Pandora’s
Keepers~Nine men and The Atomic Bomb”。 
ci[17] オッペンハイマーの解任劇に関しては Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb”に負うところが大きい。
cii[18] Brian Van De Mark “Pandora’s Keepers~Nine men and The Atomic Bomb” 
ciii[19] A.H.Compton “Atomic Quest” 
civ[20] Atlantic Monthly (December 1946)。上記に引用されていた部分を再度引用した。
cv[21] Paul Lawrence Rose “Heisenberg and the Nazi Atomic Bomb Project”など。
cvi[22]一九七六年にハイゼンベルクが亡くなった際にアメリカ哲学協会がゴードスミットにハイゼンベルクの思い出を尋ね、ゴードスミットが語った内容による。
(David C. Cassidy “Uncertainty ~ Life and Science of Heisenberg”からの引用。)
cvii[23] Robert Jungk "Brighter than a Thousand Suns"。ただし、表現は若干変えてある。
cviii[24] Michael Frayn “Copenhagen(Play)” 
cix[25] エドワード・テラーの消息を本文中ではわざと省いたが、テラーは同世代の科学者の中でも最も長い寿命と影響力を保ち、ロナルド・レーガンの政権下でSDI(Strategic Defensive Initiative)の技術顧問となった。